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それは思い出ではない

  2020年の秋に住みはじめた今の家から、きょう引っ越すことになった。家族はまだ寝ているが、あと数時間後には荷物の運び出しが始まる。 ひとつだけ日記っぽいものを書こうと思った。いま感じていることは新しい家に行ってからは書けないなという直感がある。 書くのは主に子どものことである。 自分の勤め先は変わらないが、娘は別の保育園に転園することになった。一番上の年長クラスなので、半端と言えば半端な時期になってしまった。 きのうが引っ越し前の最後の登園日だった。2日ほど前に保護者のLINEグループにメッセージを送ったから、送り迎えの際に何人かの子や保護者の方に「もう最後なんですね」「元気でね」と声をかけられた。ひと足先に卒園してしまうみたいだった。 子どもには「いま」しかない。明日、来週には別人になっている。去年や来週に引きづられている大人とはちがう。だから子どものいまをよく見よ、といろんな人が言う。宮崎駿とか。 なるほどと思う。いま果たせなかった「これやりたい」を、翌日に叶えさせても熱はすでに冷めている、ということはいくらでもある。 しかしそうなると、思い出とは何だろうか。 きょうは保育園で何して遊んだの?と聞くとたいてい「わすれた!」と返されるが、本当にその連続でしかないのか。 おそらく半分はそうだろう。数秒間の花火のような熱をきょうも明日も燃やしつづけているから子どもは子どもなのだ、と宮崎駿なら言うだろう。いずれ火は消えてしまう、だから子どもとは 挫折を運命づけられたきらめきのようなものなんだとジブリの本に書いていた。そういうウォームでドライな子ども観だ。 子どもはいつから思い出を持つようになるのだろう。思い出をスルメのように噛みはじめたら大人になったということなんだろうか。 いまふと、「この瞬間を忘れたくない!」と強く思った自分の子ども時代の記憶がよみがえった。たぶん、すごく楽しい思いをした帰り道や、卒業式を終えたあとに。すでに、この瞬間は大人になったら忘れてしまうのだと分かっていたから、忘れたくない!と頭に響かせていたのだろう。やっぱり瞬間を覚えていることはできなかった。忘れたくないと思っていたことだけを覚えている。 これは思い出じゃない何かである。 思い出はとっておけない。子どもには「いま」しかない。 子どもはいつのまにか、あるいはあるとき突然大人になる...

『眼と精神』:形と力についてのノート その6

メルロ=ポンティの論文「眼と精神」は、人間にとって視覚とは何かを、セザンヌやクレーたち画家の眼を借りて考察する。   著者はある部分で、視覚とは「見えるものに対する、存在するものの歳差である」という。 歳差というのは天文学の言葉で、回るコマの軸自体がゆっくり首を回すように、地球の自転軸が 23.4 度傾いたままゆっくり回ること(歳差運動)により、天の赤道や星座といった空の風景が 26,000 年かけて入れ替わりまた戻る、その見かけ上の位置の差異である。 つまり、見える像=地球の自転も、存在=太陽や星の位置もどちらも平常運転しているのに、両者に必然的に生じてしまうズレ、そのようなものとして著者は視覚を定義している。   視覚=歳差について、もうひとつ出されている例が鉄道の線路である。 「彼方においても等間隔でありつづけようとするために収斂するレール。私から独立した世界であろうとするために私の遠近法に従うレール」という表現がある。 線路は存在としてはまちがいなく平行線である。しかしそのために、視覚においては遠いかなたで一点にくっつくように見えなくてはならない。逆に遠くでも平行に見えていたら、それは実際には平行ではない(手前側でくっついてしまう)。古代ギリシャの神殿の柱のふくらみ=エンタシスも同じ問題への対処である。   レールが遠近法に従うのは、世界が自分から見えるようにしか存在しないからではなく、世界が私から自律して存在しており、かつ私は遠近法的な眼を通してしか世界に触れられないからだ。 メルロ=ポンティはまた一言で、「眼は心の窓である」という。私と世界、大地と星、像と存在は一致しない。必ずズレ合っている。ズレを感じるための通風孔が眼であり、押し開く能力が視覚である。窓を開けた瞬間に肌で感じる涼しさ、私たちが「見ている」のはそういうものである。   では、絵画とは何か。 著者は画家の視覚について考察している。つまり人間が本来持つ視覚の本質を、画家だけがわかっているという前提で話している。絵画とはまず、画家の視覚が実現されたものである。 ふつう視覚とは、能動的に「見る」能力、あるいは光を受け取る器官として受動的に「見える」能力のどちらかで語られる。一方メルロ=ポンティは、視...

セザンヌ論つづき:形と力についてのノート その5

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  ロジャー・フライ『セザンヌ論』 つづき   黒字=原文 青字=メモ セザンヌが輪郭づけた《果物皿》とグラスの形状を見れば、彼がこの調和的感覚に駆り立てられて、物体の視覚像すらどれほど制御したかがわかる。この二つの物を別にすれば、支配的なのは方形と球形のヴォリュームである。つまり、ありうる形体のうち最も基本的なのはこれらの形体なのである。しかし遠近法の視覚では《果物皿》とグラスの円形は楕円形に見えることとなる。そして、楕円はゴシック建築における撹乱的な効果でわかるように、まったく別種の感情を喚起する形体である。楕円は円や直線とはうまく調和しない。したがってセザンヌがそれらを 両端の丸い長方形に変形している のを見ても、なんら不思議ではない。この変形(デフォルマシオン)は楕円の優雅さと細長さを取り去り、代わりに球形がもつのと同じ重々しさと豊満さの特性をそれに付与している。 円が遠近法に従った形が楕円形なのに、画面上では円と楕円形は調和しない(だからお皿とグラスを楕円形に描かない)というのは不思議な話だ。遠近法も調和をもたらすルールには違いないが、そのイリュージョン的な調和と、セザンヌが目指す調和は違う、と著者は考えている。   ヴォリュームとマッスに対する実に強い感情、またそれらを極めて精確な形で表現したいという希求のために、物体の輪郭がセザンヌにとってほとんど強迫観念になったことは容易に理解できる。主として面の相互関係に専念する画家にとって、鋭い角度で、つまり強い短縮法で表現される面が何らかの悩みの種となることは自明の理である。このことは恐るべき問題を提出する――すなわち、カンヴァスの表面上で広がりを持たない面が、絵画空間の中ではそれでもなお十全の広がりを暗示しなければならないのである。完全な奥行き、形体の丸みと量感はこれいかんで決まる。実際、問題を複雑にしているのは、物体のこのヘリが多くの場合、異常な明るさを伴って見えるという事実であり、それが絵を見る人に、いわばカンヴァスの表面を思い出させてしまうことである。 この事態はセザンヌのデッサンに見てとれる。彼はほとんどつねに、あたかも明確で目立ちすぎる表現をことごとく避け、ここには 次第に奥行き方向に短縮された面の連なりがあることを暗示するかのように、何本もの平行...

セザンヌ論:形と力についてのノート その4

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ロジャー・フライ『セザンヌ論』 黒字=原文 青字=メモ セザンヌの《果物皿》 彼に充分な落ち着きとゆったりとした時間を与え、その着想の深みを探るためにいくらでも遅延を許したのは、他でもない、静物画だけであった。静物を前にしたとき、それもしおれやすい短命な花々ではなく、玉葱やりんご、あるいは他の丈夫で長持ちする果物を組み合わせたとき、彼は色彩の全体を深く探る分析を究めつくすまで追い続けることができたのである。この分析の途方に暮れるような迷宮の中で、彼がアリアドネの糸としてつねに堅持していたのは、色彩の変化は面の動きに呼応するという考えであった。彼は終始この呼応関係をさまざまな修正を通して探り出そうとしたが、それは固有色の変化を観察した結果に基づいていた。 面の動きとは、地球儀をまわさないまま眺めるように、立体物の表面を視線でなぞる動線を指すだろう。つまり「色彩の変化は面の動きに呼応する」とは、色(の変化)はそのまま形(の変化)である、ということだ。塗り絵のように、まず形があって次に色を属性として付与していくのとはまったく異なる。セザンヌにとっては色を描くことがそのまま形を描くことになる。 とにかくセザンヌが絵を描くのには時間がかかったのだろう。人間のモデルにはさんざん呆れられたのではないか。何度もモデルを務めた妻はすごい。 真の印象派たち、すなわちオーヴェールにおけるセザンヌの仲間のギヨーマンやピサロのような画家たちによって、面の運動感に呼応するこうした色彩変化は積極的に表現された。だが、彼らがもっと強い関心をもったのは視覚の色彩モザイクの複雑さをそっくりつかみ取ることであり、造形的形体を喚起する複合的全体の中からこれらの色彩表徴を分離・強調することの方ではなかった。彼らは自分たちの目が自然を知覚するために学んだ、途切れのない色彩の織物をカンヴァス上に織り込もうとしたのである。しかしこうした狙いはセザンヌのような性質の人間を完全には満足させなかった。知性は必ず明瞭な区分を追求するものである。自然の連続性を処理するには、自然は不連続なものとして理解されねばならない。組織化と分節化なしには、知性はどうすることもできない。そしてセザンヌについていえば、その知性は、もっと正確に言えば彼の感覚的反応における知的部分はその権利を全面的に主張したのである。 フライは印象派のなかでも...

捲土重来:形と力についてのノート その3

  岡﨑乾二郎 「捲土重来――再起する絵画(絵画の変容そして勝利)」より (『感覚のエデン』 p74 ~ 79 )   黒字=原文 青字=メモ   坂田一男は日本における本格的抽象絵画の先駆者とも評価されます。その評価は間違ってはいませんが、抽象表現を必然的な回答とみなす問題設定が理解されていなければ、抽象も恣意的、主観的に選びうるスタイルつまり表面的な絵柄の一つにすぎません。スタイルとして考えれば、抽象も具象もあらゆるスタイルを作家は選りどりみどりですが、それが必然的な問題設定のない主観的選択である限り、それを持続的に展開することはできません。むしろ重要なのはスタイル上の差異ではなく、その底にある問題です。その意味において、一九二一年に坂田が渡仏した当時のパリの前衛画家たちの仕事をここで見直す必要があります。フランス近代絵画の展開を見渡せば気付くことですが、フランス在住の近代画家の多くは(たとえば分析的キュビスムのようにきわめて思弁的探求を行った前衛的な画家であっても)純粋な抽象表現に至ることをあえて回避していたように見えます。マティスやピカソ、あるいはブラックは最後まで「対象を持たない」という意味での抽象絵画を描きませんでした。坂田と同世代のもっと若く、さらに思弁的な前衛画家たちも含め、フランス在住の前衛画家たちは(当時の哲学者たちと同様に)むしろ対象=事物の考察(事物と主体の考察)、探求に向かっていたのです。 よく知られているように近代絵画で好まれたモチーフは静物と風景でした。静物や風景は、歴史、物語などに関わる特別な意味は持たず、形態や色など画面を構成する造形的手がかりだけを与える格好の対象だったという説明がよくなされます。けれど、こうした造形上の手がかりという消極的な意義をはるかに超えた問題を、静物や風景というモチーフは突き付けるものでした。いわば、もの(対象)を見ること、すなわち人(主体)が何か(対象)を見るという安定した関係を揺るがせ、疑わせ、批判検討させる契機がそこにはあったのです。その意味において、静物そして風景は抽象絵画を一つの回答とする、近代絵画の課題=問題群の基底とつながっていたと言えるでしょう。 「人がモノを見る」図式を問い直すという課題。 19 世紀は静物や風景(=モノ)の描き方を工...

形と力についてのノート その2

 今更だが、「形と力」についてどうして考えてみたいんだっけ、という話。三つのスケールがある。遊びの話、レイアウトの話、理論の話。 まずいちばん近い部分から。作品への「なんかいい」という直観に説明を与えたい。美術館にたくさんならんでいるなかで、こちらを立ち止まらせるいくつかの絵。じっくり見させるということはすでに、何らかの力をもっているということだ。 あるいは、公園につれていった子供が、ブランコなりすべり台なりを指して「これやる!」と決めるとき、どんな力が働いているのか、と考えてもいい。遊具の形が子供を巻きこみ、体を動かしている。 「楽しく遊べそう」という印象は、美術館で「なんかいいな」と感じることに似ている。趣味判断という現象そのものはどんなふうに説明できるのか。 もう少し離れたところから言うと、印刷物のデザインとか、レイアウトを仕事で扱うようになって、ものの配置や見せ方が人の情動を喚起するという実感があるからだ。 チラシやポスターのようなもののデザイン工程では、最初のレイアウトを何パターンか考えるときがいちばんおもしろい。パターンによって見る人が注目する情報の順番とか、与える印象が変わる。そのとき働いている力とは何か。決して文字の大きさとか配置にすべて還元できるわけでもない。具体的な操作の集積が完成物であるはずなのに、結局はパッと見たときの全体的な印象みたいなものが見る人にいちばん影響を及ぼしている。その印象って何なのか。 もっと遠くにある理由。批評を構成するレトリックとロジック(佐々木敦)の相関関係がおもしろいとずっと思っていた。たとえば福尾匠が使う「ドゥルーズの理論が自身の哲学者としての実践に跳ね返ったとき何が起こるか」みたいな言い回しは、「跳ね返る」という言い回し(レトリック)があってはじめて福尾の理論(ロジック)が成り立っている。このレトリックとは、つまりロジックの形みたいなものだろうと思う。 ロジックそのものは文章のどこにも書かれていない。言葉の連なりから、読者が勝手に取り出してくる抽象的な図式がロジックだ。ではロジックは虚構で、レトリックだけが真実かというとそうでもない。ロジックなしでは弁証法とか脱構築とかそういった概念もなく、新しい思想が生まれてくることもない。 具体的なレトリックからロジックが抽出され、抽出されたロジックが新たなレトリックに...

形と力についてのノート

形には力がある。 その力とはどのようなものか。 形とは布置である。輪郭や形状はもちろん、角度や色や、集合と離散、質感や量感も含まれる。現にある作品の見た目ということ。内在する要素。 平倉圭『かたちは思考する』の表現では「他でもあり得た可能性を背景に、選びとられた特定の形」のこと。白いキャンバスと、チューブの中に眠っていた絵の具から最終的に導かれた布置。 そうでないもので言えば、ジャンルや、美術史的なイズムなど、作品の外部にある情報。外在的なメタデータ。壁にかけられた絵のそばに置かれたタイトルや解説。 まず情報は置いておいて、形に注目する。というか、情報より先にひとを注目させる形‐布置があるなら、その形が持っている力とは何か。 ヒントになりそうな言葉を3つ並べて眺めてみよう。 一つ目はハイデガーの『芸術作品の根源』46ページから。 「何がここで生起しているのか。作品において何が活動しているのか。ヴァン・ゴッホの絵画は、道具、すなわち一足の農夫靴が真理においてそれであるものの開示である。この存在するものはその存在の不伏蔵性の内へと歩み出る。存在するものの不伏蔵性を、ギリシア人たちはアレーテイアと名付けた」 ゴッホが描いたのは、黒ずんだ農夫靴が静かに置かれている、それだけの絵である。片方の靴はひもがほどけてだらしなく伸び、もう片方はくるぶしを覆う高い部分が、いま脱ぎ捨てられたばかりかのように折り広げられている。 ハイデガーはそこから、労働の辛さや、畑の土の冷たさ、のみならず祭りの日に持ち主が靴のかたわらを通り過ぎる一瞬までもを感じ取る。 こうした豊かな解釈、広がる連想がハイデガーにとっての真理(アレーテイア)である。芸術作品が開示する真理はひとつではない。形がもつ力とは、見る人のなかに世界の複雑さを喚起する力である。 二つ目は岡﨑乾二郎の『抽象の力』8ページから。 「キュビスム以降の芸術の展開の核心にあったのは唯物論である。すなわち物質、事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける。その具体性、直接性こそ抽象芸術が追究してきたものだった。アヴァンギャルド芸術の最大の武器は、抽象芸術の持つ、この具体的な力であった」 物質のリアルな様子、目に見えるさまを再現しようという絵画の試みは印象派に到達し、折り返した。物質と人間のあいだにある「知覚」をキャンバスに定着させるのではなく、...

サマリー:岡﨑乾二郎「批評を招喚する」

 サマリー:岡﨑 乾二郎「批評を招喚する」(『抽象の力』p382-410) 芸術には形式がある。絵画や建築、舞踊や彫刻といった大きな括りから、より絞れば印象派やメタボリズムといった運動まで。形式は外延と内包(あるいは物質と精神、媒体と意図)の組み合わせから成る。 芸術とは何か。制作も批評も、その問いには従来の形式を批判することで答えてきた。形式批判の道筋は大きく二つに分かれている。ひとつは本質主義 —— 外延か内包のどちらかを本質とすることでもう一方の不足や抑圧を告発する。もうひとつは歴史主義 —— 形式の展開を、外延あるいは内包の止揚へと向かう必然的過程と位置づける。 本質主義も歴史主義も問題含みだ。外延も内包も、一方を本質とするかぎり必ず他方に裏切られる。完全に調和した形式など現実にはないからだ。本質主義は自身の正当性を確保するために形式の矛盾を必要としている。歴史主義は全体主義へと直結する。いずれにせよ芸術はイデオロギーになる。アイデンティティを問うことをアイデンティティとしたとき、永遠の空白が確保される。 著者は第三の立場を表明する。作品とは、形式に基づいて生み出されたオブジェクト、生産物である。形式とは外延と内包、素材と作者を結びつける機能である。形式にはパラダイムあるいはプライムオブジェクトと呼ばれる原型がある。作品は外延でも内包でもなく、まず原型が生み出す規範に従う(原型>形式>作品)。 形式は歴史をもたない。芸術史は支配的な人間集団の移り変わりにすぎない。形式はそれぞれに異なる時間・空間の周期を持ち、繰り返し歴史に現れるが、規範自体は変化しない。作品とは複数の形式の組合せ・衝突である。 であれば批評の仕事は何か。ただ現在を切り取ろうとすれば市場のヘゲモニーの話に回収される。そうではなく、作品のなかに流れ込む形式(群)の構造を新たに発見すること。構造をいまだ明らかにされていない角度で切断してみせることでのみ現在は現れる。  

国立近代美術館の企画展と常設展

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国立近代美術館で、戦争画を特集した企画展と常設展を見た。おもしろいと思った絵の写真を撮ることにした。 田辺至の『南京空襲』という作品。「空爆の視点」という小コーナーに掲げられていた。日中戦争以後、地上を俯瞰する戦闘機の視点で描くことが、公的な要請のもと制作された作戦記録画のひとつの定番になった。そこでは地上での実際的な被害が見えない(描かれない)という特徴があると説明されていた。 画面の大部分を占める地上は、モネの水面のようにぼやけてかすんでいる。それに対して戦闘機は尾翼の文字が読めるほどくっきりと描かれている。 印象派の筆触分割は、見るたびに姿を変えるような光や反射を捉えること、あるいは画面から離れることで色と色を網膜上で(キャンバス上でなく)混ぜて見せること、という狙いがある。『南京空襲』は、画面と見る人のあいだの距離を、そのまま戦闘機と地上のあいだ、爆弾だけが行き来するその距離に変換させている。 企画展の他の作品でも、それぞれ歴史画や宗教画、ロマン主義といった美術史の教科書に出てくるさまざまな技法が動員されたことが強調されていた。その中でも『南京空襲』はとくに、絵画を描かしめた力と技法がストレートに結びついている。 田辺は何を見て地上を描いたのか。航空写真を用いたかもしれない。南京という実在の町を描くのだから地図もかたわらにあっただろう。しかし白黒写真も地図も色はわからない。じっさい従軍して機上から景色を眺めた可能性はある。そのとき、印象派のようだと思ったかもしれない。 そもそも作戦記録画は描かなければいけない主題と描いてはいけないディティールがある。光という描けないものを描くための技法が、何かを描かないように描く方便として用いられる。批判するのは簡単だ。だが田辺が実際に筆を動かしているときは、どこまで細かく描く(描かない)のだろうという無数の判断を迫られたはずである。空爆を遂行するパイロットと同じかもしれない。機上の自分と、敵機と、目標となる小さな目印だけを意識すること。果てしなく広がる大地のうえの、極限的に狭められた視界と思考。 浜田知明の絵は、めちゃくちゃうまい漫画家の絵みたいだと思った。銅版画。銃を自分ののどに突き付ける『初年兵哀歌』で有名。 最後の『よみがえる亡霊』は、海面から浮かび上がる戦艦に、司令官のようなひげを生やした人物の顔が乗っかっている。...

仮に今、絵の具を渡されたとして

仮に今、理由はわからないまま絵具と筆とキャンバスをとつぜん渡されたら、自分はどんな絵を描くか。何かを描いたとして、そこには自分や世界とのどのような関わりが滲み、どう無関係であるだろうか。それが作品としてある、ということがもたらす波紋を正確に捉えることができるか。 美術作品を見て何かを考えるということは、画家が何にチャレンジしたのかを想像することだ。必ずしも画家が意図したことではなく、画家が言葉に翻訳したものでもない。明示的ではない、あるいは余りにも明らかなゆえに誰もが見過ごしているようなものを「可能性の中心」と呼んでとり出してみせる。 セザンヌの絵には妙なところがある。少年の耳は不自然に大きく描かれている。画面の内でもっとも遠くにある山がもっとも厚みをもって描かれている。 「視覚の可変性を考えれば、遠くにあるものに焦点を合わせた途端に、遠くにあるものが手前に引き出されて大きく見えるということがあるわけですから、視覚原理を徹底すると、こうした相対的な位置関係や大きさはほとんど意味をなさなくなってしまう」。(『絵画の準備を!』岡﨑、P250) ある絵画を視覚的に不自然なものとして処理することから、不自然さを内包したものとして視覚の方が上書きされる。あるいは「自然な視覚」に基づいた絵画(一点透視図法、明確な輪郭線)のイリュージョンが暴かれる。セザンヌのチャレンジをたとえばそのように形容すると、マティス、ピカソ、その後のモダニズム美術が受け継ごうとしたものが何となくわかってくる。 絵画の「妙な部分」について、岡﨑はエズラ・パウンドの「イメージ」という用語を使って説明している。アルファベットに対する漢字のように、それ自体がひとつの意味のまとまりとして感受されるもの。視覚対象とは、完全に客観的に成立するものでも、かといって主観に属するのでもない、瞬間的に把握されるひとまとまりの意味=イメージである(岡﨑、p276-277)。 イメージはそれ自体が歴史をもち、にもかかわらず確定されない揺らぎをもっている。「海水浴」という言葉、あるいはセザンヌが描いた海水浴をする人の絵にしても、その意味がひとつに確定されていれば情報量はゼロに等しい。誰もが了解するような海水浴というおおまかな意味の枠組み(絵画なら枠そのもの)のなかに流し込まれるイメージ。前景と後景のあいだである「中景」を舞台に演じ...

生活とともに思考する

会社、家事、子どもの世話で塗りつぶされる毎日に対して、ずっと否定的な感情をなくせずにいた。これがなければ、あるいは少なければ、色んな事ができるのにと。 しかしふと、ネガティブは別に消えていないのだが、そうした「生活」という言葉に集約されてしまう(があまりに巨大な)ものを含めた思考をやっていくことはできるかもしれないと思った。子どもを公園へ連れていった帰りの自転車をこいでいるときに。 思考をやっていく、なんてひどい言い回しだが、「毎日をやっていく」ことと並行した営みなのだから別に悪くないとも思う。生活とともに思考する。 これは大学や大学院で専門的な修行を積んだ人たちには難しいのではないか。哲学書のトークイベントで静かにできない子どもが退室をうながされるように、専門性は生活的なものを排除して成り立っているからだ。ひとりで、静かに、集中して作られたものに含まれていない成分。決して否定はできない。実際この文章じたいを子どもの昼寝に乗じて書いている。そうせざるを得ない。しかしそこに閉じこもろうとすると人工的で変な領域になる。あくまで隙間である。 すると思い浮かぶ次の手は生活そのものを思考の対象とすること、ワイワイガヤガヤした自然に開かれたオープンな場で語り合おう、みたいなものだがそれもちょっと違う。もちろん良さはわかるが、それはそれで快適さのために守らなければいけないマナーとか、コミュニティのそれっぽい色合い(偏り)みたいなものがあるだろう。 あるいは労働の話にスイッチする手もあるだろうが、それはしたくない。労働や会社の構造よりも、それらへのうんざりの方が手前にある。うんざりの向こう側に語られるべき広い領域があることはわかるが、先の二つと同じくらい奇妙な世界だとも思う。バリバリやっていきます!みたいなのは論外だ。サイドメニューのように付随した家族のために頑張って遅くまで残業、帰ってビールを飲むのがハッピーみたいなものも却下。 生活とはどうしようもなく、しょうもないものが一挙手一投足にちょっとずつ付いて回ることだ。次の予定のために急いだり、過去の自分が出しっぱなしにしていたものを片づけたりする。大学の教授にも、コミュニティスペースのオーナーにも同じように降りかかる。そうした生活から離陸もしなければ全身を埋めるのでもなく、思考の条件としてしぶしぶ握手するこ...

『ルネサンス 経験の条件』はこんな話

  ルネサンスとは一般的に、統一のとれた表現の時代とされている。 絵画で言えば透視図法を用いて、建築ならば調和のとれた比率で構成されたファサードにおいて統一される。それら表現の統一は、見るひとの視覚の統一でもある。透視図法は絵画のフレームを「窓」として機能させ、ファサードは建物に正面性をつくる。 一方で、ルネサンスには視覚を分裂させる表現も存在した。 本書で分析されるのはそうした「統一性を欠く」とされてきた作品群である。 ・ティツィアーノ『田園の奏楽』 ・ダンテ『神曲』 ・マサッチオ、フィリッピーノ・リッピ『ブランカッチ礼拝堂壁画』 ・多声法(ポリフォニー)で作曲されたミサ曲 ・マサッチオ『三位一体』 また、第 1 章で分析されるマティスの『ヴァンス礼拝堂』も、時代は異なるがその系譜に含められる。 では、視覚が分裂する、とはどのような事態か。 たとえば、絵画に描かれた群衆のなかで、ひとりだけこちらを向いている人物と目があったとき。その他の部分を見ているとその人物は目に入らないが、彼・彼女と目が合った瞬間、他の部分は視界から排除されてしまう。画面全体を見ることがかなわず、視覚は分裂する。 あるいは、聖書のエピソードを描いたはずの壁画のなかで、複数の場面が入り乱れている。ブランカッチ礼拝堂壁画ならば、ひとつの画面のなかに三人もペテロが登場し、一人はイエスと言葉を交わし、別のペテロは役人にお金を渡したりしている。こうした異時同画面的な表現は、統一性に重きを置いたレオナルドダヴィンチなどによって厳重に禁じられてきたものである。 また音楽で言えば、主旋律に対して伴奏的な旋律を付す音楽に対して、多声法で作曲された音楽は、どれかひとつの旋律に集中して聴くことができない。聴覚が分裂する。 なぜ、こうした統一性に反して、観客の感覚を攪乱するような芸術が存在するのか。 作品群をつらぬくキーワードは、制作でいえば「射影幾何学」、哲学でいえば「想起」、美術史(におけるキーパーソン)としては「ブルネレスキ」である。   射影幾何学 射影幾何学は、平面内に存在する複数の図形同士を、互いの射影 projection としてあつかう。ここに、角度や大きさが異なる三角形が二つ(△ abc, △ a’b’c’ )...

ルネサンスと非美学

 岡﨑乾二郎『ルネサンス 経験の条件』と、福尾匠『非美学』を同時に読んでいる。 二冊の本にそれぞれ書かれていることが、どこかつながっており、どこか折り合わないような、絶妙な距離感で頭の中に居座っている。たがいに無関心で自分の作業に集中しながら、しかし同じ室内の空気を吸っている人物たちの(福尾風に言えば「煙草の煙に存在をくらます」)ようで、両者を収める映画のショットがあればきっと美しさを感じさせるだろう。 『ルネサンス』で分析されている建築家ブルネレスキは、フィレンツェの大聖堂や孤児院といったきわめて具体的な作品を世に生み出しながら、決して直接は知覚できない完全な比例関係をどのようにすれば理念として手放さずにいられるか、その手法を編み出すことに生涯をささげている。 特に面白いのは、大聖堂の長年にわたる建設の終盤、あとはドーム状の大屋根(クーポラ)を残すのみというところで設計を任されたブルネレスキが、すでに前任者たちによって建設された部分の直径や延長線をもとに、クーポラの理想の形を導き出した場面だ。 あまりにも設計および建設が難しいため後回しにされていた大屋根であるにもかかわらず、計算で導き出されたドームの頂点である「宙空の一点から、あたかも大聖堂のすべての形態が引き出されてきたように形態を組織していった」。同書で引用されている別の美術史家のことばを孫引きすれば、ブルネレスキはたんに建物を「完成させた」のではなく、「結論づけた」のである。 このプロセスをさらに想像で復元する岡﨑もすごいが、ともかくあらゆる芸術作品について、その制作の側から考えるための手がかりをブルネレスキのエピソードから引っぱり出すことができる。作品が完成する瞬間は、当然制作プロセスの最後に訪れるわけだが、ロジックとしては逆で、すべてのプロセスに先立つ最初の点が決まること(結論づけること)なのだ。ドームの頂点は、現実的な建築物のある一点である以上に作品全体を条件づける超越論的な一点になった。 比例、あるいは鏡像関係を見出すことで、帰結として超越論的な視点(統覚)が決定される。これは制作の手法であると同時に批評の手法でもある。しかし、その手管には何か分を超えたものがあるのではないか、と眉をひそめるのが『非美学』である(別に岡﨑を直接論じているわけではない。あくまで自分の脳内の話だ)。 福尾の本は、...

地層、化石:福田尚代『日な曇り』

建物に入ると、グレーの床と白い壁に囲まれた、扇形の空間があった。 学校の教室ほどの広さだが、天井は高い。けっして明るくはないが目をこらすほど暗くもない。ほんらいは壁と天井の境目に沿って設けられた小窓から、自然光が差し込んで照明の役割を果たすのだろうが、その日は大雨だった。はっきりとした光が入ってこない代わりに、少しだけ暖色の照明がつけられていた。   部屋の中央にガラスケースがあって、本の栞ひもがほぐされ雲のようになった「書物の魂」という作品が収められている。 他の作品は部屋の壁や床に沿うように置かれている。消しゴムを小船のかたちに彫刻したもの、 1cm にも満たない長さまで削られて小人のようになった色鉛筆。   最初の空間を見下ろせる小さな2階があり、そこに絵画がかけられている。 近づいてよく見ると絵ではなく、小さめのテレビくらいの白いパネルに、ペンで文字がびっしりと書かれている。文字と言っても、書いた本人にしかわからないほど小さく、筆跡もかなり省略されているので、内容を読み取るのは難しい。ただ、漢字の練習のように文字を羅列したのではなく、なにか文章が書いてあるらしいことだけがわかる。 文字列の途中でペンのインクがだんだんと薄くなっていき、あるところから濃くなっては薄くなって、というのが何度か繰り返されている。パネルは隅から隅まで文字列に覆いつくされている。   この絵(ととりあえず呼ぶ)を見てふと地層だと思った。本当の地層は古い層のうえに新しい層が積み重なっていくが、この絵はふつうの横書きの文字列として左上から書かれているだろうから、成り立ちは異なる。しかし出来上がったものはまるで文字の地層である。 あらためて他の作品に目をやって、それは地層から掘り出された化石かもしれないと思うと、腑に落ちた感覚があった。切り取られた文庫本や栞ひもが宿す色は、製品として作られたときの色ではなく、かといって作家が着色したものでもない。時間だけがつけることのできる色をしている。 福田の美術は、「存在と非存在のあいだ」とか、「あわい」といった言葉で表現されることが多い。たとえば「書物の魂」を見るとき、わたしたちの想像は栞がかつて役割を果たしていた書物へと向かい、いまはそれが無い事実に帰ってくる。その鑑賞経験は...

宇宙科学と思考:『人間の条件』から

  1957 年、人類史上はじめて地上から宇宙へと放たれた人工衛星と呼ばれる物体を見上げながら、ハンナ・アレントは「この事態はいったい何なのか」と問うた。 『人間の条件』は、古代から近代まで人間が行ってきたあらゆる活動を三つに分類し、分析した書物だ。その分析をとおして、アレントは近代のあとにやってきた現代 —— スプートニク1号、あるいは広島に投下されたリトルボーイとともにはじまった新しい時代を理解しようとした。その意味で、『人間の条件』はきわめて時事的な本であり、同時に時代を超えた視点を提供する本でもある。 アレントが言いたかったことを勝手に読み取るなら、「現代は【宇宙科学】の時代であり、われわれが行わなければならないのは【思考】である」というものだ。 その話をする前に、近代までの人間を駆り立ててきた3つの活動、【労働 labor 、仕事 work 、行為 action 】に触れなくてはならない。   ▶ 労働と仕事と行為、そして労働の覇権 【労働】は、一個の生命体としての人間が必要とするものを生み出すための活動である。生計を立てるために働いたり、生活で発生した余分なものを片づける掃除などが当てはまる。 【仕事】は、人工的なモノを作り出すことで、一人の人間の生死を超えて存続する世界を生み出すための活動である。家を作ったり、法律やプログラムといった社会のシステムを作ったりすることだ。 【行為】は、人間が複数いるなかで、他でもない「私」という認識を生み出すための活動である。公共の場で発言したり、あるいは誰かと約束してそれを遂行するような活動が当てはまる。   まず、労働と仕事が一個の対になっている。受動的にせざるを得ないのが労働、能動的に取り組むのが仕事だ。あるいは、労働は生きている限り終わりがなく、仕事は明確な始まりと終わりがある、という点でも対照的だ。 この二つに対して、行為は概念として少し離れた位置にある。労働が「黒」で仕事が「白」なら、行為は「赤」みたいな感じである。   三つはどれが欠けても人間社会を成り立たせることができない。しかし、とりわけ近代は労働の時代であるとアレントはいう。 仕事や行為がなくなったわけではないが、いずれも労働に包摂された。 仕事をしてい...

余白と救急車

  朝、窓の外から救急車のサイレンが聞こえた。窓を開けると、ちょうど家の前の道を走り過ぎていくところだった。こどもは「きゅうきゅうしゃだ!」と見送った。   救急車が急いでいるということは、向かう先に(あるいはすでに車中に)痛みや苦しみに耐えている人がいるということだ。もしかすると、その側で冷や汗をかきながら当人を励まし続けている人もいるかもしれない。 しかし我々にとっては他人事である。物珍しいきゅうきゅうしゃ以上でも以下でもない。そしてそれでいいのだと直観的に思った。なにがいいのだろうか?   自転車に乗っていると、こちらへ向かってくる別の自転車とすれ違うことがある。道がせまければ、お互いに速度を緩めてぶつからないようにぬるっと身を交わし合う。思ったよりも近づくと「やべ、ぶつかる」と思うが、おおかた接触しない。ぶつからないと確信できる領域の外には、まだ数センチの余白がある。 自分の領域と相手の領域と、あいだにある余白。大丈夫という確信は持てなくとも、そうした不安を包んでくれるスペース。なんかそういうものが大事なのだと思う。   ひとと相談ごとをするとき、向いあうのではなく、並んで座るとよいと本に書いてあった。バーのカウンターや、車の運転席と助手席のように。ふたりが眺めているのは、余白である。自分でも相手でもないところ。 余白は救急車のように、誰かにとっての自分事かもしれない。しかし、いまのところ我々(わたしとあなた)にとっては他人事である。わたしでもあなたでもないフリースペース。そこにわたしを預ける。そのあいだ、ちょい自由になる。

株式会社カント

  カントの『純粋理性批判』 3 巻を読み終わった。光文社古典新訳文庫で出ているもので、全部で 7 巻ある。ここまで読むのに、長い中断を挟んで 1 年以上かかっている。かかりすぎ。 しかしともかく、切りのいいところまできた。来月は読書会の本でハードなものが控えており、しばらく続きは読めないので、ここらで一本カントのことを書いておこうと思う。   この本は長いのだが、何をそんなに書くことがあるのかというと、認識のメカニズムを書いている。 林檎がかならず地面に落ちるように、世界がどうして客観的な合理性を保っているのか。この問いにカントは、世界が合理的なのではなく、人間が持っている認識のメカニズムどおりにしか人間は世界を見ることができないから、あたかも世界が合理的であるように見えるのだ、と答えた。なぜウィンドウの右上には必ず×印があるのか、といったら「みんな Widows の OS を使っているからだ」ということだ(たとえ話)。物自体(プログラム)を直接認識することはできず、見えているのはすべて現象(デスクトップ)である、というのが基本のスタンスである。   それで、認識には 3 つの仮想的な能力みたいなものが必要とされていて、それぞれ感性、知性(訳によっては悟性)、理性と呼ばれる。こう聞くと、まあ視覚とか聴覚みたいなのが 3 つあるようなもんかなと思えるが、そういう風に並列になっていないのがミソである。感性、知性、理性は、この順番が大事である。①感性→②知性→③理性だ。この順番で働いてはじめて、人間は現象を認識することができる。   まず感性が対象を「直観」することで「像」が生まれ、知性がそれを「概念」として「思考」する、という順番である。(じつは『純粋理性批判』も 1 巻目が感性の仕組み、 2 ~ 3 巻が知性の仕組みという風にそのまんまの順番で書かれている。この本を、この順番で「認識」してみろというわけだ。そして 4 巻以降が理性の話なので、理性が「何」をするのかはまだ読んでいないためよく知らない。) これがよくわからない。直観とか概念とか、雲をつかむような話だ。 そこで、ドゥルーズはこの能力連合をコングロマリット(企業複合体)みたいに呼んだらしい。そのアイデアを少し拝借して、感性、知性を...

包摂と独立

  2 回前のブログでも取り上げたが、バトラーの『ジェンダー・トラブル』からはじめよう。   ジェンダー、つまり性にまつわることが人同士で「トラブル」になってしまうときがある。それは性が了解可能性をはみ出してしまうということだ。男と女という呼び名は、みんなが了解できるものとして呼びならわされている。そこからはみ出して見える人は、まわりの人の了解可能性をはみ出している。 たとえば男という言葉の了解可能性には多くの場合、女を好きになる=異性愛者という意味が含まれている。だから、男性用ロッカーで同じ時間に着替えている同僚に「彼女いるの?」と聞くことは、了解の範囲内での「自然な」行動である。ふたたびたとえば、好きになるのが女ではなく男である男に出会ったとき、先の質問者は了解できない。つまり呼び名がない。 だから、 LGBTQ という文字列で示されるような呼び名が与えられる。ゲイ、という呼び名が与えられることで、新たな了解可能性が作られる。男のひとを好きになる男=同性愛者、という意味が了解される。すると、男のひとに対して「彼女いるの?」と聞くことは間違いだということになる。「恋人いるの?」とか、あるいはそもそもそういう話題はふらない、といった結論が導き出される。   了解できることには、呼び名が与えられる。この考え方を正しいとするなら、世の中のジェンダーなトラブルは、どんどん呼び名を与えればいずれ解決するという話になるだろう。しかし、そう楽観的なことにはならない。 呼び名を与えて了解するということは、個別のジェンダーとトラブルを、限られた了解可能性に「包摂」するということだ。しかし、それは端的に不可能だ。男とかゲイとか、その他の呼び名を増やしても、それぞれのひとが直面している体や感情は必ずそこからはみ出してしまう。これは言葉のミクロな意味での限界だ。あるいはマクロな意味での齟齬もある。おなじ男であってもたとえば年齢や人種によって、その了解可能性は大きく異なるだろう。じゃあ青年や高齢者(前期、後期 … )、白人に黒人、とカテゴリを増やしても状況は変わらない。包摂は完成しない。しかし、完全に包摂から自由に生きられるかといえば、それも無理がある。 歌を聴いて聴衆が一体感を感じるとき、同じ気持ちを感じているわけではないにして...