株式会社カント
カントの『純粋理性批判』3巻を読み終わった。光文社古典新訳文庫で出ているもので、全部で7巻ある。ここまで読むのに、長い中断を挟んで1年以上かかっている。かかりすぎ。
しかしともかく、切りのいいところまできた。来月は読書会の本でハードなものが控えており、しばらく続きは読めないので、ここらで一本カントのことを書いておこうと思う。
この本は長いのだが、何をそんなに書くことがあるのかというと、認識のメカニズムを書いている。
林檎がかならず地面に落ちるように、世界がどうして客観的な合理性を保っているのか。この問いにカントは、世界が合理的なのではなく、人間が持っている認識のメカニズムどおりにしか人間は世界を見ることができないから、あたかも世界が合理的であるように見えるのだ、と答えた。なぜウィンドウの右上には必ず×印があるのか、といったら「みんなWidowsのOSを使っているからだ」ということだ(たとえ話)。物自体(プログラム)を直接認識することはできず、見えているのはすべて現象(デスクトップ)である、というのが基本のスタンスである。
それで、認識には3つの仮想的な能力みたいなものが必要とされていて、それぞれ感性、知性(訳によっては悟性)、理性と呼ばれる。こう聞くと、まあ視覚とか聴覚みたいなのが3つあるようなもんかなと思えるが、そういう風に並列になっていないのがミソである。感性、知性、理性は、この順番が大事である。①感性→②知性→③理性だ。この順番で働いてはじめて、人間は現象を認識することができる。
まず感性が対象を「直観」することで「像」が生まれ、知性がそれを「概念」として「思考」する、という順番である。(じつは『純粋理性批判』も1巻目が感性の仕組み、2~3巻が知性の仕組みという風にそのまんまの順番で書かれている。この本を、この順番で「認識」してみろというわけだ。そして4巻以降が理性の話なので、理性が「何」をするのかはまだ読んでいないためよく知らない。)
これがよくわからない。直観とか概念とか、雲をつかむような話だ。
そこで、ドゥルーズはこの能力連合をコングロマリット(企業複合体)みたいに呼んだらしい。そのアイデアを少し拝借して、感性、知性をひとつの「会社組織」に例えてみたらどうだろうか。株式会社カントである。
そもそもの認識の仕組みを、「商売」の仕組みだと思っておこう。商売するためにモノやサービスを直接つくる部署、すなわち「製造部」が要る。これは感性だ。直観とは、目のまえにある謎の物体から赤いとか丸いとか酸っぱい香りだとかといった像を受け取ることである。
そして作られたモノを、売るために値段をつけたりして商品としての輪郭を与えるのが「営業部」である。これが知性だ。みかんじゃなくて「林檎」だとか、他の種類より酸っぱいから「紅玉」だとか、概念の形にするのである。
カントは本書で繰り返し、「直観だけでは認識できない」とか「知性だけでは成り立たない」みたいにいう。たしかにそうだ。商品だけあっても客はこないし、逆に値札だけあっても商品がなければ上がったりだ。
このアイデアは上手くいきそうだ。感性と知性にそれぞれ定められた「形式」についても何とか説明できそうである。感性の形式、すなわち空間と時間は、ようは「仕様」的なものである。なんでこんな使い勝手が悪いんや!とクレームがついても、「仕様です」というわけだ。知性の形式であるカテゴリは、会社案内にのっている「事業」みたいなものだろう。ハウスメーカーが作るのは家であって、ビールではない。事業の一覧にないことをふつう会社はやらない。逆に言えば、すべて商品が成り立っているとすれば事業のどれかとして処理されているということだ。
ついでにいうなら、理性は「経営層」ではないかと勝手に思っている。商売全体の方向性を決める層なので、感性や知性とは本質的に異なるポジションだ。そしてカントの批判の矛先は、まさしくこの理性の「越権」である。
今日はここまで。
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