地層、化石:福田尚代『日な曇り』

建物に入ると、グレーの床と白い壁に囲まれた、扇形の空間があった。

学校の教室ほどの広さだが、天井は高い。けっして明るくはないが目をこらすほど暗くもない。ほんらいは壁と天井の境目に沿って設けられた小窓から、自然光が差し込んで照明の役割を果たすのだろうが、その日は大雨だった。はっきりとした光が入ってこない代わりに、少しだけ暖色の照明がつけられていた。

 

部屋の中央にガラスケースがあって、本の栞ひもがほぐされ雲のようになった「書物の魂」という作品が収められている。

他の作品は部屋の壁や床に沿うように置かれている。消しゴムを小船のかたちに彫刻したもの、1cmにも満たない長さまで削られて小人のようになった色鉛筆。

 

最初の空間を見下ろせる小さな2階があり、そこに絵画がかけられている。

近づいてよく見ると絵ではなく、小さめのテレビくらいの白いパネルに、ペンで文字がびっしりと書かれている。文字と言っても、書いた本人にしかわからないほど小さく、筆跡もかなり省略されているので、内容を読み取るのは難しい。ただ、漢字の練習のように文字を羅列したのではなく、なにか文章が書いてあるらしいことだけがわかる。

文字列の途中でペンのインクがだんだんと薄くなっていき、あるところから濃くなっては薄くなって、というのが何度か繰り返されている。パネルは隅から隅まで文字列に覆いつくされている。

 

この絵(ととりあえず呼ぶ)を見てふと地層だと思った。本当の地層は古い層のうえに新しい層が積み重なっていくが、この絵はふつうの横書きの文字列として左上から書かれているだろうから、成り立ちは異なる。しかし出来上がったものはまるで文字の地層である。

あらためて他の作品に目をやって、それは地層から掘り出された化石かもしれないと思うと、腑に落ちた感覚があった。切り取られた文庫本や栞ひもが宿す色は、製品として作られたときの色ではなく、かといって作家が着色したものでもない。時間だけがつけることのできる色をしている。


福田の美術は、「存在と非存在のあいだ」とか、「あわい」といった言葉で表現されることが多い。たとえば「書物の魂」を見るとき、わたしたちの想像は栞がかつて役割を果たしていた書物へと向かい、いまはそれが無い事実に帰ってくる。その鑑賞経験はたしかに「あいだ」的なものである。

しかし目の前のケースに入れられ、「魂」と名付けられた作品そのものはなんと言い表せばよいのか。その漠然としていた問いに、化石という言葉がぴたっとはまった感じがした。

 

博物館に展示されている化石は、昔の生物の骨そのものではない。土のなかで(ほんとうに)ゆっくりと、骨の成分が周囲の鉱物と入れ替わることでできた、文字通り石と化した物体である。よく、私たちの物質としての肉体は数週間で入れ替わるのだと代謝の仕組みが説明されるが、そのスケールを数千万年まで引き延ばした入れ替わりが地面のなかで遂行されている。

その物は、部分的にせよ元のかたちを保ったまま、しかし別の何かと入れ替わっている。たとえば言葉、事件、記憶。入れ替わりに必要な時間は、人間の肉体よりも長く、しかし恐竜よりは短い。

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