形と力についてのノート その2
今更だが、「形と力」についてどうして考えてみたいんだっけ、という話。三つのスケールがある。遊びの話、レイアウトの話、理論の話。
まずいちばん近い部分から。作品への「なんかいい」という直観に説明を与えたい。美術館にたくさんならんでいるなかで、こちらを立ち止まらせるいくつかの絵。じっくり見させるということはすでに、何らかの力をもっているということだ。
あるいは、公園につれていった子供が、ブランコなりすべり台なりを指して「これやる!」と決めるとき、どんな力が働いているのか、と考えてもいい。遊具の形が子供を巻きこみ、体を動かしている。
「楽しく遊べそう」という印象は、美術館で「なんかいいな」と感じることに似ている。趣味判断という現象そのものはどんなふうに説明できるのか。
もう少し離れたところから言うと、印刷物のデザインとか、レイアウトを仕事で扱うようになって、ものの配置や見せ方が人の情動を喚起するという実感があるからだ。
チラシやポスターのようなもののデザイン工程では、最初のレイアウトを何パターンか考えるときがいちばんおもしろい。パターンによって見る人が注目する情報の順番とか、与える印象が変わる。そのとき働いている力とは何か。決して文字の大きさとか配置にすべて還元できるわけでもない。具体的な操作の集積が完成物であるはずなのに、結局はパッと見たときの全体的な印象みたいなものが見る人にいちばん影響を及ぼしている。その印象って何なのか。
もっと遠くにある理由。批評を構成するレトリックとロジック(佐々木敦)の相関関係がおもしろいとずっと思っていた。たとえば福尾匠が使う「ドゥルーズの理論が自身の哲学者としての実践に跳ね返ったとき何が起こるか」みたいな言い回しは、「跳ね返る」という言い回し(レトリック)があってはじめて福尾の理論(ロジック)が成り立っている。このレトリックとは、つまりロジックの形みたいなものだろうと思う。
ロジックそのものは文章のどこにも書かれていない。言葉の連なりから、読者が勝手に取り出してくる抽象的な図式がロジックだ。ではロジックは虚構で、レトリックだけが真実かというとそうでもない。ロジックなしでは弁証法とか脱構築とかそういった概念もなく、新しい思想が生まれてくることもない。
具体的なレトリックからロジックが抽出され、抽出されたロジックが新たなレトリックになる、という連鎖反応が批評を構成する。小説の世界では物語とメタファーの関係に言い換えられると思う。言葉の世界で具体的な形が力をもち、その力が新たな形を生み出す、という現象。
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