包摂と独立
2回前のブログでも取り上げたが、バトラーの『ジェンダー・トラブル』からはじめよう。
ジェンダー、つまり性にまつわることが人同士で「トラブル」になってしまうときがある。それは性が了解可能性をはみ出してしまうということだ。男と女という呼び名は、みんなが了解できるものとして呼びならわされている。そこからはみ出して見える人は、まわりの人の了解可能性をはみ出している。
たとえば男という言葉の了解可能性には多くの場合、女を好きになる=異性愛者という意味が含まれている。だから、男性用ロッカーで同じ時間に着替えている同僚に「彼女いるの?」と聞くことは、了解の範囲内での「自然な」行動である。ふたたびたとえば、好きになるのが女ではなく男である男に出会ったとき、先の質問者は了解できない。つまり呼び名がない。
だから、LGBTQという文字列で示されるような呼び名が与えられる。ゲイ、という呼び名が与えられることで、新たな了解可能性が作られる。男のひとを好きになる男=同性愛者、という意味が了解される。すると、男のひとに対して「彼女いるの?」と聞くことは間違いだということになる。「恋人いるの?」とか、あるいはそもそもそういう話題はふらない、といった結論が導き出される。
了解できることには、呼び名が与えられる。この考え方を正しいとするなら、世の中のジェンダーなトラブルは、どんどん呼び名を与えればいずれ解決するという話になるだろう。しかし、そう楽観的なことにはならない。
呼び名を与えて了解するということは、個別のジェンダーとトラブルを、限られた了解可能性に「包摂」するということだ。しかし、それは端的に不可能だ。男とかゲイとか、その他の呼び名を増やしても、それぞれのひとが直面している体や感情は必ずそこからはみ出してしまう。これは言葉のミクロな意味での限界だ。あるいはマクロな意味での齟齬もある。おなじ男であってもたとえば年齢や人種によって、その了解可能性は大きく異なるだろう。じゃあ青年や高齢者(前期、後期…)、白人に黒人、とカテゴリを増やしても状況は変わらない。包摂は完成しない。しかし、完全に包摂から自由に生きられるかといえば、それも無理がある。
歌を聴いて聴衆が一体感を感じるとき、同じ気持ちを感じているわけではないにしても、同じものを同じ歌に託して、人々はポジティブなものを獲得する。包摂されることは、私たちの居場所を確かなものにする。そこからすべて独立して生きることは、世界が不安そのものになってしまうということだ。
私たちの個別の人生を、了解可能性に包摂することは不可能だ。しかし、人生は了解可能性を――すべてを包摂できると信じることで初めて成立する。独立と包摂をどちらも手放せないとき、うずまき始めるのがトラブルだ。
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