捲土重来:形と力についてのノート その3
岡﨑乾二郎 「捲土重来――再起する絵画(絵画の変容そして勝利)」より (『感覚のエデン』 p74 ~ 79 ) 黒字=原文 青字=メモ 坂田一男は日本における本格的抽象絵画の先駆者とも評価されます。その評価は間違ってはいませんが、抽象表現を必然的な回答とみなす問題設定が理解されていなければ、抽象も恣意的、主観的に選びうるスタイルつまり表面的な絵柄の一つにすぎません。スタイルとして考えれば、抽象も具象もあらゆるスタイルを作家は選りどりみどりですが、それが必然的な問題設定のない主観的選択である限り、それを持続的に展開することはできません。むしろ重要なのはスタイル上の差異ではなく、その底にある問題です。その意味において、一九二一年に坂田が渡仏した当時のパリの前衛画家たちの仕事をここで見直す必要があります。フランス近代絵画の展開を見渡せば気付くことですが、フランス在住の近代画家の多くは(たとえば分析的キュビスムのようにきわめて思弁的探求を行った前衛的な画家であっても)純粋な抽象表現に至ることをあえて回避していたように見えます。マティスやピカソ、あるいはブラックは最後まで「対象を持たない」という意味での抽象絵画を描きませんでした。坂田と同世代のもっと若く、さらに思弁的な前衛画家たちも含め、フランス在住の前衛画家たちは(当時の哲学者たちと同様に)むしろ対象=事物の考察(事物と主体の考察)、探求に向かっていたのです。 よく知られているように近代絵画で好まれたモチーフは静物と風景でした。静物や風景は、歴史、物語などに関わる特別な意味は持たず、形態や色など画面を構成する造形的手がかりだけを与える格好の対象だったという説明がよくなされます。けれど、こうした造形上の手がかりという消極的な意義をはるかに超えた問題を、静物や風景というモチーフは突き付けるものでした。いわば、もの(対象)を見ること、すなわち人(主体)が何か(対象)を見るという安定した関係を揺るがせ、疑わせ、批判検討させる契機がそこにはあったのです。その意味において、静物そして風景は抽象絵画を一つの回答とする、近代絵画の課題=問題群の基底とつながっていたと言えるでしょう。 「人がモノを見る」図式を問い直すという課題。 19 世紀は静物や風景(=モノ)の描き方を工...