形と力についてのノート

形には力がある。

その力とはどのようなものか。

形とは布置である。輪郭や形状はもちろん、角度や色や、集合と離散、質感や量感も含まれる。現にある作品の見た目ということ。内在する要素。

平倉圭『かたちは思考する』の表現では「他でもあり得た可能性を背景に、選びとられた特定の形」のこと。白いキャンバスと、チューブの中に眠っていた絵の具から最終的に導かれた布置。

そうでないもので言えば、ジャンルや、美術史的なイズムなど、作品の外部にある情報。外在的なメタデータ。壁にかけられた絵のそばに置かれたタイトルや解説。

まず情報は置いておいて、形に注目する。というか、情報より先にひとを注目させる形‐布置があるなら、その形が持っている力とは何か。


ヒントになりそうな言葉を3つ並べて眺めてみよう。

一つ目はハイデガーの『芸術作品の根源』46ページから。

「何がここで生起しているのか。作品において何が活動しているのか。ヴァン・ゴッホの絵画は、道具、すなわち一足の農夫靴が真理においてそれであるものの開示である。この存在するものはその存在の不伏蔵性の内へと歩み出る。存在するものの不伏蔵性を、ギリシア人たちはアレーテイアと名付けた」

ゴッホが描いたのは、黒ずんだ農夫靴が静かに置かれている、それだけの絵である。片方の靴はひもがほどけてだらしなく伸び、もう片方はくるぶしを覆う高い部分が、いま脱ぎ捨てられたばかりかのように折り広げられている。

ハイデガーはそこから、労働の辛さや、畑の土の冷たさ、のみならず祭りの日に持ち主が靴のかたわらを通り過ぎる一瞬までもを感じ取る。

こうした豊かな解釈、広がる連想がハイデガーにとっての真理(アレーテイア)である。芸術作品が開示する真理はひとつではない。形がもつ力とは、見る人のなかに世界の複雑さを喚起する力である。


二つ目は岡﨑乾二郎の『抽象の力』8ページから。

「キュビスム以降の芸術の展開の核心にあったのは唯物論である。すなわち物質、事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける。その具体性、直接性こそ抽象芸術が追究してきたものだった。アヴァンギャルド芸術の最大の武器は、抽象芸術の持つ、この具体的な力であった」

物質のリアルな様子、目に見えるさまを再現しようという絵画の試みは印象派に到達し、折り返した。物質と人間のあいだにある「知覚」をキャンバスに定着させるのではなく、物質そのものが人間にもたらす「認識」や「概念」こそをキャンバスに描こう、と印象派後の作家たちは考えた。

ハイデガーが(ゴッホという特定の作家に寄りかかりつつも)無時間的な芸術の本質を考えた。岡﨑は通時的、美術史的な視点から芸術の力を定義しようとしている。

(岡﨑にとって、知覚と認識のズレの主題化とは、20世紀初頭にピークを迎え夏目漱石ら文学をも巻き込んだモダニズム全体の問題である。一方1886年に描かれたゴッホの絵をハイデガーが論じたのは1930年代だから、両者はシンプルに時代と問題意識を共有している)

共通しているのは、外在的な現実の再現ではなく、内在的な形に作品の力が宿ると考えるところ。力は見る人のなかに(精神に)直接働きかける。絵がリアルだからすごいのではなく、描かれている以上に精神に喚起される何かこそがリアルなのだ。

(ハイデガーは一見、靴がリアルに描かれているのがすごい、と言っているようだが、本人がそれを退けている。本当に持ち主の農夫が苦労しているかは問題ではなく、そうした真理が観た人のなかに喚起されることが重要)

芸術の力とは、見た目(=形)の所在を対象観察から造形のほうへと引っ張ってくることで成立する。キャンバスへ筆を下ろす前ではなく、筆を下ろした後にはじめて力が発生する。こう表現すると、次の平倉の話とも接続されそうだ。

三つ目は平倉圭『かたちは思考する』17ページから。

「《メドゥーサ》の経験に生じることは、程度の差はあれ他の形象を見るときにも起こることだ。見る者は形象に近づき、また遠ざかりながら、形象を複数の眺めから抱握し、その眺めに自分自身がくり返し抱握され、形象と多重の「韻」を踏む。形象が十分に強く造形されるとき、見る者もまた波及的に「造形」される。そうして見る者の心身は、形象の思考を外的に延長する記号過程の一部となる」

首を切られた怪物メドゥーサの、恐怖におののいた表情が描かれたカラヴァッジョの絵。じっくりと見るほどに顔のひきつりや目の見開きが自分の顔へと伝染していく。私とメドゥーサは韻を踏む。

形が成立する過程に、見る人が巻き込まれる。こうした現象を平倉は「巻込」という。


いったんまとめよう。

形には力がある。力は、誰かが絵を見たときに発揮される。

形は見た人を巻きこみ、何かを喚起する。その何かをハイデガーはアレーテイア(解釈学的な真理)と呼び、岡﨑は認識と呼び、平倉は韻と呼ぶ。

三者が共有するのは二つの前提である。

1) 形に力が宿る瞬間は、画家が何かをみて絵を描いたときではなく、誰かが絵をみたそのときである。主体は絵であり、画家ではない。

2) 力は、絵の周囲に散乱する外在的な情報に還元されず、形にこそ内在する。


ここからは実際の作品やその分析を通して、形と力に関する話を広げていきたいのだが、どこかで取り扱いたいのは、理論の形についてである。

たとえば二項対立、弁証法、脱構築、否定神学といった話を、形の話として読み替えたらどうか。理論の構造を形として分析することは可能か。構造に力は宿るか。

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