生活とともに思考する

会社、家事、子どもの世話で塗りつぶされる毎日に対して、ずっと否定的な感情をなくせずにいた。これがなければ、あるいは少なければ、色んな事ができるのにと。

しかしふと、ネガティブは別に消えていないのだが、そうした「生活」という言葉に集約されてしまう(があまりに巨大な)ものを含めた思考をやっていくことはできるかもしれないと思った。子どもを公園へ連れていった帰りの自転車をこいでいるときに。

思考をやっていく、なんてひどい言い回しだが、「毎日をやっていく」ことと並行した営みなのだから別に悪くないとも思う。生活とともに思考する。

これは大学や大学院で専門的な修行を積んだ人たちには難しいのではないか。哲学書のトークイベントで静かにできない子どもが退室をうながされるように、専門性は生活的なものを排除して成り立っているからだ。ひとりで、静かに、集中して作られたものに含まれていない成分。決して否定はできない。実際この文章じたいを子どもの昼寝に乗じて書いている。そうせざるを得ない。しかしそこに閉じこもろうとすると人工的で変な領域になる。あくまで隙間である。

すると思い浮かぶ次の手は生活そのものを思考の対象とすること、ワイワイガヤガヤした自然に開かれたオープンな場で語り合おう、みたいなものだがそれもちょっと違う。もちろん良さはわかるが、それはそれで快適さのために守らなければいけないマナーとか、コミュニティのそれっぽい色合い(偏り)みたいなものがあるだろう。

あるいは労働の話にスイッチする手もあるだろうが、それはしたくない。労働や会社の構造よりも、それらへのうんざりの方が手前にある。うんざりの向こう側に語られるべき広い領域があることはわかるが、先の二つと同じくらい奇妙な世界だとも思う。バリバリやっていきます!みたいなのは論外だ。サイドメニューのように付随した家族のために頑張って遅くまで残業、帰ってビールを飲むのがハッピーみたいなものも却下。

生活とはどうしようもなく、しょうもないものが一挙手一投足にちょっとずつ付いて回ることだ。次の予定のために急いだり、過去の自分が出しっぱなしにしていたものを片づけたりする。大学の教授にも、コミュニティスペースのオーナーにも同じように降りかかる。そうした生活から離陸もしなければ全身を埋めるのでもなく、思考の条件としてしぶしぶ握手することはできるだろうか。材料でもない。意味を見出そうとしない。ただ目に飛び込んできたり背中にのしかかってきたりするもの。それらと共に作品をつくったり文章を書いたりすることの意味。

 


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