『ルネサンス 経験の条件』はこんな話
ルネサンスとは一般的に、統一のとれた表現の時代とされている。
絵画で言えば透視図法を用いて、建築ならば調和のとれた比率で構成されたファサードにおいて統一される。それら表現の統一は、見るひとの視覚の統一でもある。透視図法は絵画のフレームを「窓」として機能させ、ファサードは建物に正面性をつくる。
一方で、ルネサンスには視覚を分裂させる表現も存在した。
本書で分析されるのはそうした「統一性を欠く」とされてきた作品群である。
・ティツィアーノ『田園の奏楽』
・ダンテ『神曲』
・マサッチオ、フィリッピーノ・リッピ『ブランカッチ礼拝堂壁画』
・多声法(ポリフォニー)で作曲されたミサ曲
・マサッチオ『三位一体』
また、第1章で分析されるマティスの『ヴァンス礼拝堂』も、時代は異なるがその系譜に含められる。
では、視覚が分裂する、とはどのような事態か。
たとえば、絵画に描かれた群衆のなかで、ひとりだけこちらを向いている人物と目があったとき。その他の部分を見ているとその人物は目に入らないが、彼・彼女と目が合った瞬間、他の部分は視界から排除されてしまう。画面全体を見ることがかなわず、視覚は分裂する。
あるいは、聖書のエピソードを描いたはずの壁画のなかで、複数の場面が入り乱れている。ブランカッチ礼拝堂壁画ならば、ひとつの画面のなかに三人もペテロが登場し、一人はイエスと言葉を交わし、別のペテロは役人にお金を渡したりしている。こうした異時同画面的な表現は、統一性に重きを置いたレオナルドダヴィンチなどによって厳重に禁じられてきたものである。
また音楽で言えば、主旋律に対して伴奏的な旋律を付す音楽に対して、多声法で作曲された音楽は、どれかひとつの旋律に集中して聴くことができない。聴覚が分裂する。
なぜ、こうした統一性に反して、観客の感覚を攪乱するような芸術が存在するのか。
作品群をつらぬくキーワードは、制作でいえば「射影幾何学」、哲学でいえば「想起」、美術史(におけるキーパーソン)としては「ブルネレスキ」である。
射影幾何学
射影幾何学は、平面内に存在する複数の図形同士を、互いの射影projectionとしてあつかう。ここに、角度や大きさが異なる三角形が二つ(△abc, △a’b’c’)あるとしよう。その頂点aとa’、bとb’、cとc’をそれぞれつらぬく三本の直線をひいてみると、三つの直線が交わる一点が遠くにあらわれる。すると△a’b’c’は、その遠くの一点を光源としたばあいに△abcからできた「影」のように見える。このとき、三角形同士の関係は「配景的に対応している」と言われる。
射影幾何学が後の時代の絵画を席巻した透視図法と異なるのは、画面の中でのみ成立する論理を扱う点だ。透視図法は、画面の向こうに広がる世界を現実と地続きの実体として扱い、その世界を覗き見る窓として絵画を成立させる。しかし射影幾何学における配景的な対応は、画面の中にしか存在しない。言い換えれば、透視図法は唯一の超越的な視点を要求するが、射影幾何学は内在的な話である。
岡﨑が分析する分裂的な作品群は、射影幾何学を用いて制作されたというより、射影幾何学的に読み解くことを要請する表現である。画面の中にたくさんの配景的対応がちりばめられている。たとえば手前に人物がいて奥に風景が続いているような絵画において、山の稜線と人物が手にもつ笛のラインが近似していることに着目すれば、そのラインを延ばした先で交わる地点に描かれた何気ない壺が、新たな存在感をもって浮かび上がってくる、というように。分裂する視覚とは、こうした配景的対応をその都度取り出してくるような知覚である。
想起
想起とは要は「思い出す」ということ、特定の時間や空間に定位された立場から、別の立場へと精神が向かう働きを指す。古代ギリシャの哲学から使われてきた言葉だが、岡﨑はアウグスティヌスの時間に関する議論に依拠している。
アウグスティヌスは、過去、現在、未来という時間はそれ自体としては線状に存在しているのではないという。では時間とは何かというと、「過去についての現在」「現在についての現在」「未来についての現在」という3つの立場、その空間的な広がりである。
時間を空間的に説明しているので難しく思えるが、イメージとして3つの山の頂上に立っている3人の人物を想像してみる。過去山にも未来山にも、それぞれ現在の自分と対等な自分がいる。対等というのは、そこに現在の自分を代入しても成り立つような、交換可能な関係ということだ。過去に向かえば「記憶」、未来に向かえば「期待」となって、それぞれの山の頂上へ身を置くことが想起である。現在の自分とは確固としたただ一人の存在ではなく、常に過去や未来へと意識が分裂している存在だ。これが「過去/未来についての現在」である。
ごくごくシンプルにとらえるなら、時間にはこの瞬間、現在しかない。だから広がりを持たない。しかし広がりのないものをどうやって測るのか、と問えば、過去‐現在‐未来にまたがる複数の主体による交換可能性によって成り立っていると考えざるを得ない。岡﨑の表現では、その広がりとは「関数」である。主体はそこに代入される変数のようなものだ。
この想起と時間にまつわる議論は、「限られた画面においてどうやって広がりを表現するか」、という絵画の問題に効果を発揮する。分裂的な絵、たとえばひとつの画面に複数の同一人物が登場する異時同画面は、時間の表現を通して空間の広がりを作ることこそ目指されている。それは透視図法による統一的な画面に閉じ込められるのではない、別の広さを持った画面である。
ブルネレスキ
岡﨑が考察するルネサンスの作品群は、すべてひとりの人物が携わった、あるいはその影響のもとに制作されている。それがフィレンツェのサンタマリア大聖堂の大屋根を設計した建築家ブルネレスキである。
フロイトが心のモデルとしてイメージしたマジックメモのように、本書においてブルネレスキが発明した「鏡の装置」は作品を分析するための特権的なモデルになっている。
装置は、建造物の絵が描かれた板Aと、鏡が貼られた板Bの2枚からなる。人は片手に板A、もう一方の手に板Bを持つ。Aの建造物の絵の中央には小さな穴が開いており、人は板の後ろから穴を通して、反対側に立てた板Bを見る。Bの鏡にはとうぜんAの絵が映っているわけだが、Aの建造物の背景には箔が貼られており、そこには現実の空が映し出される。
装置のポイントは、現実=三次元の光景と、描かれた建築物=二次元の光景の差異をなくしてしまうことにある。両者は鏡のなかで統合される。そして、そこに視線はない。建造物の背景に映っているのは空のみで、見ている人は映らない。ブルネレスキの狙いは、絵を現実のように見せることではなく、逆に現実を絵と等価のものにしてしまうこと、画面のなかの関係に還元してしまうことにあった。
「画面の中の関係」とは何か。ブルネレスキはその建築において、数学的な比例を何よりも重んじたことで知られる。しかしそれは同じ傾向をもつ建築家としてひとくくりにされるアルベルティなど同時代の建築家とは似て非なる理念であると岡﨑はいう。ブルネレスキにとって比例とは、目に見える領域を1:2:3で割っていく、というようなことではなく、現実には知覚できない「より大きな比例」のなかに、すべての要素を内属させていくことを意味している。
100年にもわたるプロジェクトであるサンタマリア大聖堂建設の、最終段階である大屋根にいたってはじめて設計を任されたブルネレスキが、ドームの最終的な形態を導き出したのも同じ理屈による。すでに建設された部分の長さや比率を元にして計算されたその形は、あたかもドームの頂点から大聖堂のすべての部分が導き出されたかのような必然性をもっていた。
彼が重んじた比例‐関係とは、大屋根の設計に着手した当時のように、未だ見えないが確実にある、抽象的な関係である。だから、鏡の装置によって見ることができる「画面の中の関係」もの、現実的な知覚を抜きにしてあらゆる要素を数学的な比例に還元した結果生み出されるものとして考えるべきだ。人はたしかにその像を「目で見て」いるのだが、感知しているのは像ではない。感性ではなく悟性によってのみ捉えられるもの。
「人が絵を見るということは、人が神さまを信じているときとちょうど同じようなものなんだ」という、第1章で引用されるマティスの言葉は、こうしたルネサンス作品群の分析を通して新たな意味を与えられる。
透視図法によってあらゆる要素が統一された絵画がある一方で、無数の要素が乱立しているように見える分裂した絵画が存在する。それらの要素はただ独立して分裂しているのではなく、たがいを想起し、交換し合うことでいくつもの配景的対応のネットワークを形づくっている。その関係性は見るたびに、あるいは見る人によって異なるかもしれない。絵画に対して超越的な現実=鑑賞者がいるのではない。絵画のなかだけに世界があり、目に見える要素から見えない比例までを包摂する何かがある。それを信じるということが絵を見るということになる。
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