国立近代美術館の企画展と常設展

国立近代美術館で、戦争画を特集した企画展と常設展を見た。おもしろいと思った絵の写真を撮ることにした。

田辺至の『南京空襲』という作品。「空爆の視点」という小コーナーに掲げられていた。日中戦争以後、地上を俯瞰する戦闘機の視点で描くことが、公的な要請のもと制作された作戦記録画のひとつの定番になった。そこでは地上での実際的な被害が見えない(描かれない)という特徴があると説明されていた。

画面の大部分を占める地上は、モネの水面のようにぼやけてかすんでいる。それに対して戦闘機は尾翼の文字が読めるほどくっきりと描かれている。

印象派の筆触分割は、見るたびに姿を変えるような光や反射を捉えること、あるいは画面から離れることで色と色を網膜上で(キャンバス上でなく)混ぜて見せること、という狙いがある。『南京空襲』は、画面と見る人のあいだの距離を、そのまま戦闘機と地上のあいだ、爆弾だけが行き来するその距離に変換させている。

企画展の他の作品でも、それぞれ歴史画や宗教画、ロマン主義といった美術史の教科書に出てくるさまざまな技法が動員されたことが強調されていた。その中でも『南京空襲』はとくに、絵画を描かしめた力と技法がストレートに結びついている。

田辺は何を見て地上を描いたのか。航空写真を用いたかもしれない。南京という実在の町を描くのだから地図もかたわらにあっただろう。しかし白黒写真も地図も色はわからない。じっさい従軍して機上から景色を眺めた可能性はある。そのとき、印象派のようだと思ったかもしれない。

そもそも作戦記録画は描かなければいけない主題と描いてはいけないディティールがある。光という描けないものを描くための技法が、何かを描かないように描く方便として用いられる。批判するのは簡単だ。だが田辺が実際に筆を動かしているときは、どこまで細かく描く(描かない)のだろうという無数の判断を迫られたはずである。空爆を遂行するパイロットと同じかもしれない。機上の自分と、敵機と、目標となる小さな目印だけを意識すること。果てしなく広がる大地のうえの、極限的に狭められた視界と思考。



浜田知明の絵は、めちゃくちゃうまい漫画家の絵みたいだと思った。銅版画。銃を自分ののどに突き付ける『初年兵哀歌』で有名。

最後の『よみがえる亡霊』は、海面から浮かび上がる戦艦に、司令官のようなひげを生やした人物の顔が乗っかっている。艦の表面にはオウムガイのようなうずまきを持った物体がへばりついている。それがたとえばアンモナイトのような太古の生物だとしたら、1956年ですでに太平洋戦争と白亜紀を重ね合わせるような距離感で描いていたことになる。よく30年、40年前の昭和や平成を指して「もう歴史の教科書に載る出来事だから…」という言い方があるが、その比ではない。

常設展。安井曽太郎の『奥入瀬の渓流』。キャプションに「後景、中景、前景の描き分けに苦労した」みたいな画家の言明が書かれている。岡崎乾二郎の本で後景、中景、前景の話を読んだばかりだったので、お手本のような絵だと思った。前景と後景が明るく、中景だけが暗い。前景というのは単なる額縁ではなく、画家=見る人が立っているそこなのだとわかる。画家は前景の明るみのなかにいて、後景の光が差す流れを見つつ、そのあいだにある暗がりに焦点を当てている。

福沢一郎は企画展でも迫力のある絵がたくさん紹介されていたが、この常設展の絵も魅力的だった。『二重像』というタイトルで、キャプションによれば、右側の女性はマザッチョがブランカッチ礼拝堂に描いた壁画に登場する名もなき人。壁画は聖書の一場面が描いていて、聖ペテロに「神の下で共有するはずの財産を隠し持っていたな」と暴かれて息絶えたアナニヤとその妻を、名もなき人は取り巻きから眺めている。その人をさらに眺めているのが左の顔が見えない人である。たしかに、壁画のなかのどの人物の視点に立つかといえばわれわれの多くは暴く人でも暴かれる人でもなく、取り巻きの名もなき人、すなわち次に暴かれるかもしれない人である。その現代性は絵が描かれた1937年も同じだということだ。

最後に草間彌生。作品よりもキャプションで紹介されていた言葉がかっこよかったので写真を撮った。こうして振り返るとキャプションばかり見ている。

人生初の個展は公民館で、2日間だけ。20歳そこらの画家が個展に寄せて書いた言葉。

「文化は時代の新しい産物であり、世界を呼吸し世代を創造してゆくことを要請している。歴史への批判と現在のポイントを踏み迷ってはならない」。

家族にこれがよかったと話したら、「踏み違えてはならない」じゃなくて「踏み迷ってはならない」なんだねとコメント。たしかに。






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