余白と救急車
朝、窓の外から救急車のサイレンが聞こえた。窓を開けると、ちょうど家の前の道を走り過ぎていくところだった。こどもは「きゅうきゅうしゃだ!」と見送った。
救急車が急いでいるということは、向かう先に(あるいはすでに車中に)痛みや苦しみに耐えている人がいるということだ。もしかすると、その側で冷や汗をかきながら当人を励まし続けている人もいるかもしれない。
しかし我々にとっては他人事である。物珍しいきゅうきゅうしゃ以上でも以下でもない。そしてそれでいいのだと直観的に思った。なにがいいのだろうか?
自転車に乗っていると、こちらへ向かってくる別の自転車とすれ違うことがある。道がせまければ、お互いに速度を緩めてぶつからないようにぬるっと身を交わし合う。思ったよりも近づくと「やべ、ぶつかる」と思うが、おおかた接触しない。ぶつからないと確信できる領域の外には、まだ数センチの余白がある。
自分の領域と相手の領域と、あいだにある余白。大丈夫という確信は持てなくとも、そうした不安を包んでくれるスペース。なんかそういうものが大事なのだと思う。
ひとと相談ごとをするとき、向いあうのではなく、並んで座るとよいと本に書いてあった。バーのカウンターや、車の運転席と助手席のように。ふたりが眺めているのは、余白である。自分でも相手でもないところ。
余白は救急車のように、誰かにとっての自分事かもしれない。しかし、いまのところ我々(わたしとあなた)にとっては他人事である。わたしでもあなたでもないフリースペース。そこにわたしを預ける。そのあいだ、ちょい自由になる。
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