宇宙科学と思考:『人間の条件』から

 1957年、人類史上はじめて地上から宇宙へと放たれた人工衛星と呼ばれる物体を見上げながら、ハンナ・アレントは「この事態はいったい何なのか」と問うた。

『人間の条件』は、古代から近代まで人間が行ってきたあらゆる活動を三つに分類し、分析した書物だ。その分析をとおして、アレントは近代のあとにやってきた現代——スプートニク1号、あるいは広島に投下されたリトルボーイとともにはじまった新しい時代を理解しようとした。その意味で、『人間の条件』はきわめて時事的な本であり、同時に時代を超えた視点を提供する本でもある。

アレントが言いたかったことを勝手に読み取るなら、「現代は【宇宙科学】の時代であり、われわれが行わなければならないのは【思考】である」というものだ。

その話をする前に、近代までの人間を駆り立ててきた3つの活動、【労働labor、仕事work、行為action】に触れなくてはならない。

 

労働と仕事と行為、そして労働の覇権

【労働】は、一個の生命体としての人間が必要とするものを生み出すための活動である。生計を立てるために働いたり、生活で発生した余分なものを片づける掃除などが当てはまる。

【仕事】は、人工的なモノを作り出すことで、一人の人間の生死を超えて存続する世界を生み出すための活動である。家を作ったり、法律やプログラムといった社会のシステムを作ったりすることだ。

【行為】は、人間が複数いるなかで、他でもない「私」という認識を生み出すための活動である。公共の場で発言したり、あるいは誰かと約束してそれを遂行するような活動が当てはまる。

 

まず、労働と仕事が一個の対になっている。受動的にせざるを得ないのが労働、能動的に取り組むのが仕事だ。あるいは、労働は生きている限り終わりがなく、仕事は明確な始まりと終わりがある、という点でも対照的だ。

この二つに対して、行為は概念として少し離れた位置にある。労働が「黒」で仕事が「白」なら、行為は「赤」みたいな感じである。

 

三つはどれが欠けても人間社会を成り立たせることができない。しかし、とりわけ近代は労働の時代であるとアレントはいう。

仕事や行為がなくなったわけではないが、いずれも労働に包摂された。

仕事をしていた職人たちに代わって、素人による分業体制が確立された。われわれにとって生きることは労働することとほぼイコールになった。自分が「誰であるか」という行為の領域も、労働によって補完されるかのように思われている。それは必然性に支配された動物の時代である。

著者がそれをよくは思っていないのは確かだが、単純に労働を批判しているわけではない。労働する動物の時代は、次の新たな活動を準備している。

 

宇宙科学

宇宙科学は、労働の時代の次にくるであろう新たな活動である。いっぽう、思考は古代からずっとあり――そして最も必要とされていながら見失われている活動である。

いずれもアレントがはっきりと述べているわけではない。でもあえてそう呼んで(読んで)みよう。

労働が「黒」、仕事が「白」、行為が「赤」なら、宇宙科学と思考はそれぞれ何だろうか?

 

まずは宇宙科学から。

本書のプロローグは1958年当時の最先端科学からはじまる。言及されているのは宇宙開発や核開発、生殖医療である。今ならAIの開発と普及が加わるだろう。

それらはごく限られた専門家たちの研究に見えるが、アレントによればそうではない。「きわめて政治的な問題」、つまりわれわれの社会が求めた末に実現されつつある、史上類を見ない新たな活動である。科学者たちは職業人として手を貸しているに過ぎない。

 

なぜ最先端科学がまったく新しい活動なのか。

労働、仕事、行為はいずれも人間と、その集合体である社会を条件として行われる活動である。労働は生命体としての代謝に基づき、仕事は人間世界の維持という目的に基づき、行為は人間が他にいない個人として生きるというアイデンティティへの欲求に基づいている。

しかし、最先端科学は生命体である人間や社会を前提としない。世界(=この地球)から直接観察したり切り出したりするのではない、事実としても比喩としても「宇宙的な」領域で遂行される点で、決定的に新しい活動である。あるいは、地球上の自然の模倣ではない、新たな自然の過程を生み出す活動といってもよい。原子同士を衝突させて新たな反応を引っぱり出す原子力技術はその代表である。

 

しかし、どんなに高度だろうと科学は現実の世界に基づいているではないか、思われるだろう。だが自然科学と宇宙科学はちがうというのが、アレントのこだわりだ。

1608年、ガリレオが天体望遠鏡の発明に成功したその瞬間をアレントは宇宙科学の始まりに位置づけている。人間が生身では感知しえない、自ら発明した道具だけが到達することができる領域に、初めて足を踏み入れたということだ。AIがプログラムを遂行するプロセスは、開発者もトレースできないという現代の状況も、ガリレオの望遠鏡から始まっているのである。

なので、正確な意味で宇宙に関わる科学に限らず、人間にしか到達できない領域で行われ、新たな自然を生み出そうとする活動を宇宙科学と呼ぼう。

色のイメージでいえば、労働の次に来る(あるいは新たな労働の材料になる)という意味で黒が近いが、モノを通してしか介入できない領域なので仕事の白も関係してくる。「黒すぎて白く光る黒」みたいな、よくわからんがこれまでと次元が違うイメージがまあいいのではないか。

 

思考

次に思考について。

アレントはプロローグでこんなことを書いている。「ここで私がしようとしているのは、われわれの最新の経験やいままさに感じている不安に照らして、人間の条件を再検討することだ。これは、もちろん思考のなすべきことである。」

ここで、『人間の条件』という本がそのまま【思考】の実践であると宣言しているのだ。と思いきや直後には、「人間のなしうる最高の活動、おそらく最も純粋な活動である思考は、ここでの考察の対象から外される」とも言っている。労働、仕事、行為のどれとも違うが、ここでは扱いませんよ、ということだ。思わせぶりである。

 

では思考とは何なのか。アレントも本文で完全にノータッチにはできず、ちょびっと言及している。「プラトン――おそらくはソクラテス――の昔から、思考は人が心の中で自分自身と対話することだと考えられてきた」。

アレントの別の著作(『責任と判断』)でも、思考は同様の定義を与えられている。外の世界や他人と関わり合うのではなく、自分自身と対話すること。そこでアレントは、アリストテレスの「人間と動物の違いは会話することにある」というテーゼを組み合わせて、人間を人間たらしめるのは、「自分自身と対話すること=思考すること」であるとも言っている。思考も、やはり人間の条件に基づいた活動なのだ。

 

自分自身との対話、ときくと武道の達人のような、超人的な領域みたいに感じてしまうが、もう少し引き寄せて考えてみれば、自分自身が予想していなかった新しい考えが生まれる、という現象を指しているともとれる。着想が湧いてくるとき、それは天からの贈り物ではなく、もう一人の自分から差し出されている。

 

ここからは仮説だが、【思考】は【行為】の対になるものとして位置づけられるのではないか。

行為は目の前にいる他人と関わること、比喩的に言えば「対話」することを指す。いっぽうで思考は、自分の中にいるもう一人の自分と「対話」することだ。労働と仕事が黒と白のように対になっているのに対して、行為が赤のように浮いていると思われたが、思考を行為のバディ——たとえば青として想定することは可能だと思う。

行為の特徴のひとつに、予測不可能性がある。労働や仕事とちがって、行為はその結果を完全にコントロールすることができない。だから、人は約束やルールを決めることで一時的に行為を現実的なものに落とし込んでいく。

思考もまた、予測不可能な力をもつ活動だと言える。自分のなかに今の自分しかいなければすべて予測可能だろうが、実際にはそうではない。新しい考えが生まれたり、あるいは考えたくもないことが頭にこびりついて苦しんだりする。そうした意味でも、行為と思考は対になっている。

あるいは、『人間の条件』にこんな一文がある。「暴政のもとでは、思考することより行為するほうがたやすい」。念頭にあるのはナチスとドイツ国民によるユダヤ人迫害だろう。集団を維持するための行為は、必然的に権力を生む。そこで失われるものが思考である。思考をもって、バランスを取らなくてはならない。アレントは哲学者として自分がやっていることに、そのような意味を与えていると考えればわかりやすい。

 

だがわかりやすいのはつまらない。「思考こそが至高」と、哲学者がみずからの活動を正当化するためだけに持ち上げているのなら話はそれまでだ。

なぜ、思考を「もっとも重要な活動」と言っておきながら正面から扱えなかったのか。対話する活動のかたわれである行為だけを残して。アレントは思考に、何か持ち上げられないものを感じたのではないか。本書の続きを書くならそこからだ。

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