ルネサンスと非美学

 岡﨑乾二郎『ルネサンス 経験の条件』と、福尾匠『非美学』を同時に読んでいる。

二冊の本にそれぞれ書かれていることが、どこかつながっており、どこか折り合わないような、絶妙な距離感で頭の中に居座っている。たがいに無関心で自分の作業に集中しながら、しかし同じ室内の空気を吸っている人物たちの(福尾風に言えば「煙草の煙に存在をくらます」)ようで、両者を収める映画のショットがあればきっと美しさを感じさせるだろう。


『ルネサンス』で分析されている建築家ブルネレスキは、フィレンツェの大聖堂や孤児院といったきわめて具体的な作品を世に生み出しながら、決して直接は知覚できない完全な比例関係をどのようにすれば理念として手放さずにいられるか、その手法を編み出すことに生涯をささげている。

特に面白いのは、大聖堂の長年にわたる建設の終盤、あとはドーム状の大屋根(クーポラ)を残すのみというところで設計を任されたブルネレスキが、すでに前任者たちによって建設された部分の直径や延長線をもとに、クーポラの理想の形を導き出した場面だ。

あまりにも設計および建設が難しいため後回しにされていた大屋根であるにもかかわらず、計算で導き出されたドームの頂点である「宙空の一点から、あたかも大聖堂のすべての形態が引き出されてきたように形態を組織していった」。同書で引用されている別の美術史家のことばを孫引きすれば、ブルネレスキはたんに建物を「完成させた」のではなく、「結論づけた」のである。

このプロセスをさらに想像で復元する岡﨑もすごいが、ともかくあらゆる芸術作品について、その制作の側から考えるための手がかりをブルネレスキのエピソードから引っぱり出すことができる。作品が完成する瞬間は、当然制作プロセスの最後に訪れるわけだが、ロジックとしては逆で、すべてのプロセスに先立つ最初の点が決まること(結論づけること)なのだ。ドームの頂点は、現実的な建築物のある一点である以上に作品全体を条件づける超越論的な一点になった。


比例、あるいは鏡像関係を見出すことで、帰結として超越論的な視点(統覚)が決定される。これは制作の手法であると同時に批評の手法でもある。しかし、その手管には何か分を超えたものがあるのではないか、と眉をひそめるのが『非美学』である(別に岡﨑を直接論じているわけではない。あくまで自分の脳内の話だ)。

福尾の本は、哲学が他の芸術や表現に対して超越的に論じること(=旧来の美学)を批判する。キーパーソンはドゥルーズだが、彼のキーワードである「内在」とはそもそも超越に対置される概念で、作品や人間に対して外側から規範を当てはめるような振る舞いを退け、作品・人間自体がすでに持っているものだけで料理しよう、という立場だ。

しかし福尾はただそれをなぞるのではなく、「内在」って大事だよね、と「超然と言ってしまう哲学」に同様の批判を向ける。つまり、徹底的な意味で内在的な哲学の実践は可能か、という問題に取り組むのである。もちろん材料はドゥルーズの著作に内在する記述である。

『非美学』の中でそのように書かれていたかおぼつかないのだが、自分の今の理解では、同書のチャレンジは哲学や批評が本分とする「超越論的な分析」をある仕方で更新するということだ。超越論的な分析はどうしても超越的なものを呼び込みがちだ。ドゥルーズが論じた対象であるカントが、人間の認識の仕組みを精緻きわまりない分析で明らかにしながら、それ以上先に進めない一点=「共通感覚」を据え置かざるを得なかったように。超越に用心しながら、超越論的に哲学や批評をすることはできるか。

明日は岡﨑乾二郎展に行く。

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