仮に今、絵の具を渡されたとして
仮に今、理由はわからないまま絵具と筆とキャンバスをとつぜん渡されたら、自分はどんな絵を描くか。何かを描いたとして、そこには自分や世界とのどのような関わりが滲み、どう無関係であるだろうか。それが作品としてある、ということがもたらす波紋を正確に捉えることができるか。
美術作品を見て何かを考えるということは、画家が何にチャレンジしたのかを想像することだ。必ずしも画家が意図したことではなく、画家が言葉に翻訳したものでもない。明示的ではない、あるいは余りにも明らかなゆえに誰もが見過ごしているようなものを「可能性の中心」と呼んでとり出してみせる。
セザンヌの絵には妙なところがある。少年の耳は不自然に大きく描かれている。画面の内でもっとも遠くにある山がもっとも厚みをもって描かれている。
「視覚の可変性を考えれば、遠くにあるものに焦点を合わせた途端に、遠くにあるものが手前に引き出されて大きく見えるということがあるわけですから、視覚原理を徹底すると、こうした相対的な位置関係や大きさはほとんど意味をなさなくなってしまう」。(『絵画の準備を!』岡﨑、P250)
ある絵画を視覚的に不自然なものとして処理することから、不自然さを内包したものとして視覚の方が上書きされる。あるいは「自然な視覚」に基づいた絵画(一点透視図法、明確な輪郭線)のイリュージョンが暴かれる。セザンヌのチャレンジをたとえばそのように形容すると、マティス、ピカソ、その後のモダニズム美術が受け継ごうとしたものが何となくわかってくる。
絵画の「妙な部分」について、岡﨑はエズラ・パウンドの「イメージ」という用語を使って説明している。アルファベットに対する漢字のように、それ自体がひとつの意味のまとまりとして感受されるもの。視覚対象とは、完全に客観的に成立するものでも、かといって主観に属するのでもない、瞬間的に把握されるひとまとまりの意味=イメージである(岡﨑、p276-277)。
イメージはそれ自体が歴史をもち、にもかかわらず確定されない揺らぎをもっている。「海水浴」という言葉、あるいはセザンヌが描いた海水浴をする人の絵にしても、その意味がひとつに確定されていれば情報量はゼロに等しい。誰もが了解するような海水浴というおおまかな意味の枠組み(絵画なら枠そのもの)のなかに流し込まれるイメージ。前景と後景のあいだである「中景」を舞台に演じられるイメージのドラマ。妙なものが混じるとしたらそこである。
セザンヌが描いたのは、明らかに水着を着て海水浴に来た人なのだが、それにしては妙に青白い。手足から力が抜けている。あるいは海水浴ではない別の目的があるようにも見える。それにしては、それにしては。
数日前にじっさいに海水浴に行った身としては、たしかに海水浴ってどこか変なのだ。水着に着替えなくても、海に入らなくても、海を眺めてぼーっとすれば成立する。テントを張り、しばらくして強風に吹き飛ばされ、風下のひとに謝りながら片づける。そうしたことでほとんどが終わる。海水浴とは、それらしさの外側だけに成り立つ経験といってもいい。
だからセザンヌはやはり正直に描いている? いや、セザンヌによってすでに海水浴のイメージは書き換えられている。妙なものが、いつのまにかたしかにに変わっている。美術作品を見て考えるということ。
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