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231201

  ここ数日でいろいろ悩みが深まった。 家族と言い争いをしたり、体調を崩したりしたことが直接的な理由だと思うが、とにかくうまくできていない自分にイライラしているのだろう。 時間を何に使うかとか、何のために本を読むのか、といったことはいかにも「神経症的」な振る舞いだ。 神経症的、という言葉は、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』にたくさん出てくる。そこでの使われ方とは少し意味合いが異なるかもしれないが、ともかく、世の中の多くの人は意味の森のような場所に囚われて思い悩むし、自分もそうだ。 フリーライターとして「文化的雪かき」のような仕事をしていたという『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公は、結末の近くで「ただの文章」を書こうと思い立つ。 この小説を紹介していた福尾匠さんは、自身の著作『眼がスクリーンになるとき』を、映画や芸術を「ただ見る」ことから始めていた。   ただ見る。ただ読む。ただ書く。 ただ働き(タダ働きではない)、ただ生活する。 それは意味の森、神経症的な迷路とは別のところで行われる行為だ。   この文章もまた、ただやってみた作業の一部である。

東浩紀の「客的-裏方的二重体」について

『ゲンロン15』所収の東浩紀の文章を読んだ。そこで語られていることは大きく二つある。 ひとつは、現代人は誰もが「お客さん」でいることと「スタッフ」でいることを往復しながら生きるほかない、ということ。 もうひとつは、そんな時代において哲学者は、「お客さん」の側の世界について考え、言葉の力でそこに働きかけるのが仕事だということである。 文章のタイトルは「哲学とはなにか、あるいは客的-裏方的二重体について」。 東は東南アジアのリゾートホテルでこの文章を書いたという。そこではプールにぷかぷか浮かび何も考えずにぼーっとしている客と、それにせっせと奉仕するスタッフ=裏方の、二種類の人間がいる。 しかし、現代は誰もが裏方として働いて身銭を稼ぎながら、時々は客となって余暇を楽しむ時代である。いまスタッフとして働いている人も、別のところでは客としてぼーっとしている。逆に、いま客として振る舞っている人も翌日からはどこかのスタッフになる。いわば客と裏方の「二重体」であり、これが現代人のモデルである。 次に東はこのように指摘する。知識人(特にリベラルを自認する人々)や哲学者は、「裏方の世界とその苦悩がもっと改善されるべきだ」と叫びつづけてきた。たしかに、マルクスが労働者を主役にした世界観を提示したところから、リベラルの立場は変わっていないだろう。 しかし、世界は裏方だけではなく、客がいないとまわらないのではないか。といっても、もちろん東は「労働者は資本家に奉仕するべき」と言っているのではない。 リゾートの人々のように、現代は誰もが労働者でありつつ、時に資本家的な(客的な)時間を楽しむものである。つまり労働者対資本家の二項対立ではなくなっている、というところから、先ほどの二重体概念が出てきている。東が指摘する通り、リベラル派の人々だって、いつも政治的に生きているわけではなく、どこかに旅行にいけば客として振る舞うのだし、それは普通のことなのだ。 裏方だけではなく、客として振る舞う人のことを考えなくてはいけない。言い換えれば、人間として真面目に生きる時間だけでなく、動物のように欲求に従う不真面目な時間がなくては人は生きていけないし、世界はそうできている。 そしてもうひとつポイントになるのが、人は客として振る舞っているとき、自然と寛容になるという部分である。 東は、リゾートホテルでは、民族や宗教に...

ドローイング、合唱、ページデザイン

「キャンパスの上にひとつの色を置く。その横にもう一つ、別の色を置く。すると2色の間に関係が生まれる。調和かもしれないし、違和かもしれない。いずれにせよマティスは関係を読み取り、3つ目の色を置く。もともと決めていた色ではない。2色の関係を見て、それに応対するように3つ目の色は置かれる。そのようにしてドローイングが出来上がっていく。」アンリ・マティスについて書いた誰かのテキストの中で、画家はこのようなことを述べていた。 「たとえばある曲から「確信とともに光に向かっていく」というイメージを演奏者が膨らませたとする。器楽はそれを楽器を通して表現することになるが、声楽にとっての楽器は身体であり、身体はイメージに従って状態を変えるので、表現がより直接的にイメージに影響される」と、合唱の先生が言っていた。音の条件として身体があり、身体の条件としてイメージがある。 「デザインには内的な必然性が必要である。ひとつの要素を置いた時、その他の要素はすべて、はじめの要素との関係によって位置や置き方を決めることになる」と、グラフィックデザインについての解説書に書かれている。この世界に重力があるように、ページ上で関係しあう要素は端を揃えたり、サイズで主従関係を表現したりする。 *** ドローイング、合唱、ページデザイン。いずれも恣意的な表現に思えて、実はひとつ深い層にある種の必然性を抱えている。そうなるだけの理由がある。 では、その理由の下には何があるのか。キャンバスにはじめの色を置いた人、曲のイメージを膨らませた人、ページに必要な要素を決めた人。いずれも表現する人がいて、恣意的な選択がある。 すると表現には3つの層がある、ということになる。 1. 観客に届く表層 2. その下の必然性・構造の層 3. さらにその下の「はじめの一歩」の層 だが、これは罠かもしれない。3の下にさらに必然的な4がありうる。あるいは、そもそも1も2も3も同じ人物の表現なのだから、全て同じことを指しているのではないか、とも考えられる。 一番下に経験的な層を置くか、超越論的な層を置くか。ベタかメタか。 ひとまずこれでひとつの石を置いたことにする。

郵便本講座が始まる前に

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  この 5 月から、 PARA 神保町という劇場で実施される連続講座「 東浩紀『存在論的、郵便的』を読む 」を受講することになった。講師は福尾匠さん。 講座は、約 1 年をかけて、東浩紀の最初の著書を読んでいこうというもの。講座が始まる前に、自分なりに学びたいことをまとめておきたい。  * 「脱構築」を学ぶ。 東浩紀は自分が特に好んで読んできた著者である。また、それ以外にも比較的多く触れてきた書き手たち――巽孝之、佐々木敦、千葉雅也、松岡正剛――のスタイルを思い出すと、共通項として脱構築がある。 それが何なのかを知りたいのにそれをキーワードとして出すのも奇妙だが、ようは議論の逆説であったり、価値の転倒といったアクロバティックを経て、読み手のなかに新しい思考を誘発する文章=批評、だろうか。 そういったテキストを読むのが好きだし、自分も書けるようになりたい。そのために、『存在論的、郵便的』を読む。第一に、この本は東浩紀による、(脱構築の生みの親)デリダの脱構築の実践であり、第二に「●●ではなく●●でもない」と消去法的に語られがちだった脱構築という難解なスタイルに、「郵便・誤配」という積極的な可能性を見出した本である。こうした意味で、『存在論的、郵便的』は取り組むべきテキストだと感じる。  * 2016 年に批評再生塾を受講してから7年近く経った。以降、友人との読書会などを通して様々な種類の本を読んできた。当時よりほんの少しだが思弁的な文章にも耐性がついた。ここいらで、次の思考につながる足場を組みたいと思う。

穴の形をした石――『雨夜の月』について

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   青年と、同じくらいの年の女性が床に座って話し込んでいる。青年は都会の大学で文学を学ぶことが決まって、生まれ故郷を飛び出す日を心待ちにしている。幼なじみである女性は、応援していると言いつつもどこか我慢しているようだ。 青年はやがて都会へと旅立った。しかしその後、豪雨災害が故郷を襲い、人々は命を落とす。数年後、青年は再び故郷を訪れ、死者となった家族、そして幼なじみと再会する。   *   『雨夜の月』(あまよのつき)は、菅沼啓紀の脚本・演出による舞台作品である。今年 1 月に池袋で上演された。 田舎の価値観に反発する青年とそれを取り巻く人々が、災害を経て生者と死者として再会し、かつてのわだかまりをほどいていく様が描かれる。 菅沼は、 この舞台を立ち上げる際のクラウドファンディング で「大切な人の喪失にどう向き合えばいいのかを考える」というテーマを掲げていた。実際に観客として舞台を見届けた私たちは、この舞台から何を汲みとることができるだろうか。   *   死者となった家族との対話を終えた青年は、ラストシーンで幼なじみと再会する。しかし、家族と違って、青年は彼女をまっすぐ見ることができない。青年は言う。「いま振り返ったら、君が消えてしまうかもしれないじゃないか」。 このセリフは、舞台の冒頭で語られる「オルフェウスの冥界くだり」というギリシャ神話の挿話に由来している。オルフェウスは、死んだ妻を取り戻すために冥府の王と交渉し、あることを条件に妻を冥界から連れ戻すことを許される。オルフェウスは妻を連れて地上へ向かうが、あと少しというところで、「決して後ろを振り返ってはならない」という、冥府の王から与えられた禁を破ってしまう。妻はオルフェウスの前で姿を消し、その後二度と会うことはできなかった。 『雨夜の月』のラストで描かれる青年と幼なじみの対話は、オルフェウスと妻のエピソードを再現している。だから青年は振り返ることをためらう。だが逡巡しつつも、「私を振り返って」と呼びかける幼なじみに応え、振り向いて幼なじみを抱きしめる。青年は「何度でも振り返る」と約束し、舞台の幕が下りる。 菅沼が掲げていた「喪失にどう向き合うか」というテーマを再び思い出せば、当然このシーンに答えが描かれていると考...

ドストエフスキー『悪霊』を読んだ

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面白かった。悲惨な事件の予感がみなぎる中で、恋愛の駆け引きやキリスト教の習慣や貴族生活や共産主義革命がつぎつぎと繰り出されていく。物語はある祭りに向かってどんどん盛り上がっていき、祭りの終りと同時に、一挙に殺人、自殺、病死が爆発する。 前の記事にも書いたように、笑いどころもある。せっかくなので紹介するが、たとえば「第6章 大忙しのピョートル」のこんな場面。作家としてのピークを過ぎたが自尊心の高さは誰にも負けない文豪カルマジーノフと、革命グループを扇動する青年ピョートルが会うところ。二人は互いを腹の底でめちゃくちゃ軽蔑している。 「ああ!」カルマジーノフは、ナプキンで口をぬぐいながらソファから立ちあがると、心からうれしげな顔をして、挨拶のキスをするために近づいてきた。挨拶のキスはロシア人に固有の習わしだが、ただしそうしていいのはごく有名な人物にかぎられる。しかしピョートルは、すでに以前の経験から相手が、キスをするふりをしてたんに頬を差しだすだけだということを承知していた。そこで今回は、自分も同じことをしてみると、二人の頬がぺたりとあわさった。カルマジーノフは、それに気づかないふりをしてソファに腰をおろし、さもうれしげに真向かいの肘掛け椅子をすすめた。ピョートルは、そこにどっかと腰をおろした。 虚栄心に満ちたカルマジーノフと、年配世代をコケにしまくるピョートルのキャラクターが伝わってくる。後に件の祭りでカルマジーノフは、若者たちに大変な大恥をかかされることになる。 さて、特定の場面から離れて、この小説全体のテーマを改めて取り出してみるなら、それは教唆(ほのめかし)と黙過(見ないふり)である。翻訳の亀山郁夫が解説で述べている。 作中のほとんどの死は、主人公である美青年スタヴローギンの周囲で起こる。しかしスタヴローギンが直接手を下すわけでも、殺人を指示するわけでもない。事件はスタヴローギンの教唆と黙過によって発生するのである。 ピョートルは誰よりもスタヴローギンのカリスマ性に惚れ込み、彼を革命グループのリーダーに仕立て上げようとしていた。しかしスタヴローギン本人は革命にまったく興味がなかった。革命のみならず、何にも本気になることができず嘲笑するほかないシニシズムにおちいっていた。 そんな中初めて熱意を持ったのが一人の女性との恋愛だった。だが恋愛には障害物があった。スタヴロー...

ドストエフスキーの『悪霊』が面白い

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  ドストエフスキーの『悪霊』が面白い。 まだ光文社古典新訳文庫の一巻しか読んでいないが、すでにカキーンとヒットした感触がある。 まず読みやすい。うろ覚えだが、『カラマーゾフの兄弟』はキリスト教的な振る舞いや言葉遣いが頻出するため、異文化理解に時間がかかる。『罪と罰』は真夏のペテルブルグを舞台に、鬱々とした青年が悶々とし続ける退廃的な空気に満ちているため、読書のギアを上げることがまず難しい。 それと比べて『悪霊』は、ロシアの上流社会で繰り広げられるゴシップ・スキャンダル劇から始まる。登場人物たちも誰もが極端でコミカル、笑えるシーンも多い。 序盤の主人公であるヴェルホヴェンスキーは女地主の家に居候する夢想家で、自分の偉業をそこらに吹聴したと思えばとたんに極度の自己嫌悪におちいり、そしていつもギャンブルで負けている。まるで落語に出てくるダメ男のようなやつである。ようはどの登場人物も、漫画やドラマのようにキャラが立っていて、その顔を想像しやすい。実直でごまかしが許せない性格の女地主ワルワーラ、あることないこと噂を流しまくる軽薄な男リプーチン、吊り目で負けん気が強く、美人でもないがみんながそのエネルギーに魅了されてしまう女性リーザ、などなど。 さらに、これからの展開に期待を持たせるのは、巻末の解説いわく「何人も登場人物が死ぬきわめて悲惨な小説」らしいことである。今のところそのような不穏な気配はほとんど見当たらない。事件があるとしても、恋人同士が嫉妬を理由に破局したり、借金が返せなくて仕方なく結婚することになったり、といった程度だ。どれも悲劇というより喜劇、笑えるエピソードである。これがどのように殺人事件につながるのか、まったく読めないから楽しみだ。 唯一、完璧な美青年で知的、物腰も穏やかな紳士、にも関わらず「何をしでかすかわからない」不穏な空気を醸し出しているのが、作品の主人公スタヴローギンである。自分の中ではハリーポッターのスピンオフ映画で主演している俳優さんの顔に変換されているが、他の人はどうだろう。 今回初めて気づいたのは、ドストエフスキーのセリフにはきちんと間、緩急があるということである。長セリフがよく出てくるが、そのなかでもよどみなくまくし立てているところもあれば、ためらったり、言いよどんだり、話し相手の顔色を見て話しぶりを変えたりする様子などが細かく描写...