ドストエフスキーの『悪霊』が面白い

 


ドストエフスキーの『悪霊』が面白い。
まだ光文社古典新訳文庫の一巻しか読んでいないが、すでにカキーンとヒットした感触がある。

まず読みやすい。うろ覚えだが、『カラマーゾフの兄弟』はキリスト教的な振る舞いや言葉遣いが頻出するため、異文化理解に時間がかかる。『罪と罰』は真夏のペテルブルグを舞台に、鬱々とした青年が悶々とし続ける退廃的な空気に満ちているため、読書のギアを上げることがまず難しい。
それと比べて『悪霊』は、ロシアの上流社会で繰り広げられるゴシップ・スキャンダル劇から始まる。登場人物たちも誰もが極端でコミカル、笑えるシーンも多い。
序盤の主人公であるヴェルホヴェンスキーは女地主の家に居候する夢想家で、自分の偉業をそこらに吹聴したと思えばとたんに極度の自己嫌悪におちいり、そしていつもギャンブルで負けている。まるで落語に出てくるダメ男のようなやつである。ようはどの登場人物も、漫画やドラマのようにキャラが立っていて、その顔を想像しやすい。実直でごまかしが許せない性格の女地主ワルワーラ、あることないこと噂を流しまくる軽薄な男リプーチン、吊り目で負けん気が強く、美人でもないがみんながそのエネルギーに魅了されてしまう女性リーザ、などなど。

さらに、これからの展開に期待を持たせるのは、巻末の解説いわく「何人も登場人物が死ぬきわめて悲惨な小説」らしいことである。今のところそのような不穏な気配はほとんど見当たらない。事件があるとしても、恋人同士が嫉妬を理由に破局したり、借金が返せなくて仕方なく結婚することになったり、といった程度だ。どれも悲劇というより喜劇、笑えるエピソードである。これがどのように殺人事件につながるのか、まったく読めないから楽しみだ。
唯一、完璧な美青年で知的、物腰も穏やかな紳士、にも関わらず「何をしでかすかわからない」不穏な空気を醸し出しているのが、作品の主人公スタヴローギンである。自分の中ではハリーポッターのスピンオフ映画で主演している俳優さんの顔に変換されているが、他の人はどうだろう。

今回初めて気づいたのは、ドストエフスキーのセリフにはきちんと間、緩急があるということである。長セリフがよく出てくるが、そのなかでもよどみなくまくし立てているところもあれば、ためらったり、言いよどんだり、話し相手の顔色を見て話しぶりを変えたりする様子などが細かく描写されている。
柄谷行人の『探究』で言及されているバフチンの批評によれば、ドストエフスキーの登場人物たちは「自分が相手を恐れている、ということを相手に知られるのを恐れている」ために、会話の途中でしょっちゅう注釈や言い訳を挟む。だから単純なメッセージの受渡しではなく、順番が入れ替わったり主客が入れ替わったりする、不安定で不均一なコミュニケーションが行われている。バフチンはそこに流れる時間をカーニバル的時間とよんだ。たしかに、『悪霊』の会話劇、うわさがうわさを呼び、スキャンダルが次々と暴露されていく展開はカーニバルのようだ。

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