ドストエフスキー『悪霊』を読んだ


面白かった。悲惨な事件の予感がみなぎる中で、恋愛の駆け引きやキリスト教の習慣や貴族生活や共産主義革命がつぎつぎと繰り出されていく。物語はある祭りに向かってどんどん盛り上がっていき、祭りの終りと同時に、一挙に殺人、自殺、病死が爆発する。

前の記事にも書いたように、笑いどころもある。せっかくなので紹介するが、たとえば「第6章 大忙しのピョートル」のこんな場面。作家としてのピークを過ぎたが自尊心の高さは誰にも負けない文豪カルマジーノフと、革命グループを扇動する青年ピョートルが会うところ。二人は互いを腹の底でめちゃくちゃ軽蔑している。

「ああ!」カルマジーノフは、ナプキンで口をぬぐいながらソファから立ちあがると、心からうれしげな顔をして、挨拶のキスをするために近づいてきた。挨拶のキスはロシア人に固有の習わしだが、ただしそうしていいのはごく有名な人物にかぎられる。しかしピョートルは、すでに以前の経験から相手が、キスをするふりをしてたんに頬を差しだすだけだということを承知していた。そこで今回は、自分も同じことをしてみると、二人の頬がぺたりとあわさった。カルマジーノフは、それに気づかないふりをしてソファに腰をおろし、さもうれしげに真向かいの肘掛け椅子をすすめた。ピョートルは、そこにどっかと腰をおろした。

虚栄心に満ちたカルマジーノフと、年配世代をコケにしまくるピョートルのキャラクターが伝わってくる。後に件の祭りでカルマジーノフは、若者たちに大変な大恥をかかされることになる。

さて、特定の場面から離れて、この小説全体のテーマを改めて取り出してみるなら、それは教唆(ほのめかし)と黙過(見ないふり)である。翻訳の亀山郁夫が解説で述べている。

作中のほとんどの死は、主人公である美青年スタヴローギンの周囲で起こる。しかしスタヴローギンが直接手を下すわけでも、殺人を指示するわけでもない。事件はスタヴローギンの教唆と黙過によって発生するのである。

ピョートルは誰よりもスタヴローギンのカリスマ性に惚れ込み、彼を革命グループのリーダーに仕立て上げようとしていた。しかしスタヴローギン本人は革命にまったく興味がなかった。革命のみならず、何にも本気になることができず嘲笑するほかないシニシズムにおちいっていた。

そんな中初めて熱意を持ったのが一人の女性との恋愛だった。だが恋愛には障害物があった。スタヴローギンはシニシズムから生じた過去の気まぐれで、障害をもった女性とすでに秘密裏に結婚していたのである。妻の精神状態は、スタヴローギンを正しく認識できないほどに悪化していた。また、貴族の長男であるスタヴローギンにとって、そうした女性との秘密の結婚はこのうえないスキャンダルであった(逆に、現在好意を寄せる女性はまごうことなき貴族の出身だった)。ピョートルはスタヴローギンの歓心を買うために、ひいては自分の野望を実現させるために、障害を持った彼の妻の排除に踏み切る。

こうして作中で起こる殺人のうちの一つのみを取り上げても、その人間関係の複雑さがわかるだろう。決して単線的な加害者と被害者の関係には還元できない、絡み合い曖昧な状況がある。しかし、その結果もたらされた死は確固とした事実である。その非対称性がショッキングだ。そして人生の目的を見つけられなかったスタヴローギンはまさにその唯一たしかな死に引き寄せられていったようにも思える。

悲劇はストレートに起きない。教唆と黙過が悲劇を誘発する。カラマーゾフの兄弟もそうだった。イワンは父を憎むが殺したりしない。しかし腹違いの兄弟スメルジャコフが「もうひとりのイワン」となり、父を殺す。裁判ではその恐るべき関係を裁くことができない。

たとえば戦争が起きている国とわたしたちの、あるいはホロコーストとドイツ人の間にもそれがあっただろう。地球温暖化にしても人種差別にしてもそうだ。しかしただ教唆と黙過を愚かな行為と糾弾することも難しい。なぜなら人間の成熟とは、ある種の黙過を前提としているだろうからだ。大人になるとは建前を保つこと、解決できない問題を保留して手近な問題に集中することだ。

話が拡散してきたのでここで一度中断する。とにかく『悪霊』を読んでからというもの、教唆と黙過の問題が、というよりあらゆる問題は教唆と黙過なのではないか、ということが頭から離れない。

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