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それは思い出ではない

  2020年の秋に住みはじめた今の家から、きょう引っ越すことになった。家族はまだ寝ているが、あと数時間後には荷物の運び出しが始まる。 ひとつだけ日記っぽいものを書こうと思った。いま感じていることは新しい家に行ってからは書けないなという直感がある。 書くのは主に子どものことである。 自分の勤め先は変わらないが、娘は別の保育園に転園することになった。一番上の年長クラスなので、半端と言えば半端な時期になってしまった。 きのうが引っ越し前の最後の登園日だった。2日ほど前に保護者のLINEグループにメッセージを送ったから、送り迎えの際に何人かの子や保護者の方に「もう最後なんですね」「元気でね」と声をかけられた。ひと足先に卒園してしまうみたいだった。 子どもには「いま」しかない。明日、来週には別人になっている。去年や来週に引きづられている大人とはちがう。だから子どものいまをよく見よ、といろんな人が言う。宮崎駿とか。 なるほどと思う。いま果たせなかった「これやりたい」を、翌日に叶えさせても熱はすでに冷めている、ということはいくらでもある。 しかしそうなると、思い出とは何だろうか。 きょうは保育園で何して遊んだの?と聞くとたいてい「わすれた!」と返されるが、本当にその連続でしかないのか。 おそらく半分はそうだろう。数秒間の花火のような熱をきょうも明日も燃やしつづけているから子どもは子どもなのだ、と宮崎駿なら言うだろう。いずれ火は消えてしまう、だから子どもとは 挫折を運命づけられたきらめきのようなものなんだとジブリの本に書いていた。そういうウォームでドライな子ども観だ。 子どもはいつから思い出を持つようになるのだろう。思い出をスルメのように噛みはじめたら大人になったということなんだろうか。 いまふと、「この瞬間を忘れたくない!」と強く思った自分の子ども時代の記憶がよみがえった。たぶん、すごく楽しい思いをした帰り道や、卒業式を終えたあとに。すでに、この瞬間は大人になったら忘れてしまうのだと分かっていたから、忘れたくない!と頭に響かせていたのだろう。やっぱり瞬間を覚えていることはできなかった。忘れたくないと思っていたことだけを覚えている。 これは思い出じゃない何かである。 思い出はとっておけない。子どもには「いま」しかない。 子どもはいつのまにか、あるいはあるとき突然大人になる...

『眼と精神』:形と力についてのノート その6

メルロ=ポンティの論文「眼と精神」は、人間にとって視覚とは何かを、セザンヌやクレーたち画家の眼を借りて考察する。   著者はある部分で、視覚とは「見えるものに対する、存在するものの歳差である」という。 歳差というのは天文学の言葉で、回るコマの軸自体がゆっくり首を回すように、地球の自転軸が 23.4 度傾いたままゆっくり回ること(歳差運動)により、天の赤道や星座といった空の風景が 26,000 年かけて入れ替わりまた戻る、その見かけ上の位置の差異である。 つまり、見える像=地球の自転も、存在=太陽や星の位置もどちらも平常運転しているのに、両者に必然的に生じてしまうズレ、そのようなものとして著者は視覚を定義している。   視覚=歳差について、もうひとつ出されている例が鉄道の線路である。 「彼方においても等間隔でありつづけようとするために収斂するレール。私から独立した世界であろうとするために私の遠近法に従うレール」という表現がある。 線路は存在としてはまちがいなく平行線である。しかしそのために、視覚においては遠いかなたで一点にくっつくように見えなくてはならない。逆に遠くでも平行に見えていたら、それは実際には平行ではない(手前側でくっついてしまう)。古代ギリシャの神殿の柱のふくらみ=エンタシスも同じ問題への対処である。   レールが遠近法に従うのは、世界が自分から見えるようにしか存在しないからではなく、世界が私から自律して存在しており、かつ私は遠近法的な眼を通してしか世界に触れられないからだ。 メルロ=ポンティはまた一言で、「眼は心の窓である」という。私と世界、大地と星、像と存在は一致しない。必ずズレ合っている。ズレを感じるための通風孔が眼であり、押し開く能力が視覚である。窓を開けた瞬間に肌で感じる涼しさ、私たちが「見ている」のはそういうものである。   では、絵画とは何か。 著者は画家の視覚について考察している。つまり人間が本来持つ視覚の本質を、画家だけがわかっているという前提で話している。絵画とはまず、画家の視覚が実現されたものである。 ふつう視覚とは、能動的に「見る」能力、あるいは光を受け取る器官として受動的に「見える」能力のどちらかで語られる。一方メルロ=ポンティは、視...