東浩紀の「客的-裏方的二重体」について
『ゲンロン15』所収の東浩紀の文章を読んだ。そこで語られていることは大きく二つある。
ひとつは、現代人は誰もが「お客さん」でいることと「スタッフ」でいることを往復しながら生きるほかない、ということ。
もうひとつは、そんな時代において哲学者は、「お客さん」の側の世界について考え、言葉の力でそこに働きかけるのが仕事だということである。
文章のタイトルは「哲学とはなにか、あるいは客的-裏方的二重体について」。
東は東南アジアのリゾートホテルでこの文章を書いたという。そこではプールにぷかぷか浮かび何も考えずにぼーっとしている客と、それにせっせと奉仕するスタッフ=裏方の、二種類の人間がいる。
しかし、現代は誰もが裏方として働いて身銭を稼ぎながら、時々は客となって余暇を楽しむ時代である。いまスタッフとして働いている人も、別のところでは客としてぼーっとしている。逆に、いま客として振る舞っている人も翌日からはどこかのスタッフになる。いわば客と裏方の「二重体」であり、これが現代人のモデルである。
次に東はこのように指摘する。知識人(特にリベラルを自認する人々)や哲学者は、「裏方の世界とその苦悩がもっと改善されるべきだ」と叫びつづけてきた。たしかに、マルクスが労働者を主役にした世界観を提示したところから、リベラルの立場は変わっていないだろう。
しかし、世界は裏方だけではなく、客がいないとまわらないのではないか。といっても、もちろん東は「労働者は資本家に奉仕するべき」と言っているのではない。
リゾートの人々のように、現代は誰もが労働者でありつつ、時に資本家的な(客的な)時間を楽しむものである。つまり労働者対資本家の二項対立ではなくなっている、というところから、先ほどの二重体概念が出てきている。東が指摘する通り、リベラル派の人々だって、いつも政治的に生きているわけではなく、どこかに旅行にいけば客として振る舞うのだし、それは普通のことなのだ。
裏方だけではなく、客として振る舞う人のことを考えなくてはいけない。言い換えれば、人間として真面目に生きる時間だけでなく、動物のように欲求に従う不真面目な時間がなくては人は生きていけないし、世界はそうできている。
そしてもうひとつポイントになるのが、人は客として振る舞っているとき、自然と寛容になるという部分である。
東は、リゾートホテルでは、民族や宗教に関係なく客はみんなクロックスを履いていることから直観したという。別の例を出してもいいだろう。現代人は、貧富や立場の差に関係なく、みんながiphoneを持ち、スタバで飲み物を買う。子連れの家族であれば、みんながイオンモールに行き、偶然子ども同士が遊び始めれば、自然と親同士も挨拶をする。
消費者=動物としているとき、人はみんな互いの違いよりも別の何かを優先し、共有することができる。
裏方の苦悩と客の寛容さ。人間と動物。現実と理想。
本当は一人の人間がどちらも面も抱えているはずなのだが、これら二つは衝突するものとして扱われがちである。
だから、どちらも必要なのだと説き、すり合わせなければならない。それを言葉をつかっておこなうのが哲学者の仕事なのだと東はいう。
***
ここからは私の考えたことを三つ書く。
①「客-裏方」に別の言葉を代入する
まず思い浮かぶのが「子ども-親」である。子どもは何も考えない(大人のようなアレコレについては)。親は子どもの世話をしたり、生活費を稼ぐことで裏方的に立ち回る。
ポイントは、人間は親になったからといって、ずっと裏方でいるわけではないということだろう。「二重体」なのだから、たまに子ども=何も考えない側に戻るのである。それが必要だという意味でもあるし、そうならざるを得ないということでもある。責任というものは24時間背負っていられるわけではない、と言い換えてもよい。
東は文章の最後で、これは子育てをしながらこの20年で考えてきたことでもある旨を述べている。どうりでしっくりきたわけである。
次に代入してみるのは精神分析でいうところの「患者-分析家」である。精神分析に関する別の本を読んでいて思いついたのだが、この関係は「客-裏方」によく似ている。
患者は治療をやめたがるものである。たしかに治療を受けに病院にきているのだが、自分が変わることを本当は望んでいない。実際の快不快とは関係なく、症状自体に一種の快楽(享楽)を感じている。だから、治療を切り上げて元の生活に戻るきっかけというか言い訳をいろいろと探している。
それに対して、分析家が言いつづけなければいけないのは、「あなたに治療を続けてほしい」ということだ。精神分析を受けるということは、患者が期待していないような、未知の状態へ導くということである。そこに向かわなければいけない、ということを分析家が積極的に示す必要がある。
この話をもう少し日常的に言い直すなら、何かものごとを進めたり、変えていくようなときに、現状に留まろうとする立場と、変え続けるためにもう少し動き続けようとする立場があり、人はどちらにもなり得る、といったところだろうか。
教育の場面に直せば「生徒-先生」とも言えるだろう。生徒の積極性次第だ、という先生がいるように、患者が本気で治そうとしなければいけない、という分析家は後を絶たない。しかしそうではないのだ。そもそも客=患者=生徒は抵抗するものなのだから、変わろうというメッセージを送りつづけることが必要だし、逆に裏方=分析家=教師は変わりたくないという相手の抵抗を自身の裏側にも見つけなければいけない。問題を相手の意志の弱さに還元してはならない。
②郵便的であること
東の『存在論的、郵便的』の概念で、今回の話を表現したらどうなるか。
今回の「哲学とは何か」では、「客の幻想と裏方の現実をすり合わせるクレーム対応係」という独特のたとえで哲学者を表している。
幻想と現実、あるいは超越論的な層と経験的な層、メタとベタと言ってもよいが、これらが対立しているとき、哲学者はどうすべきか。
郵便本の言葉で表現するなら、「メタこそが真実である」と啓蒙するのが形而上学的な考え方で、「完全なメタなんてありえない」という否定しつつ「ありえない」という形で逆説的にメタの層をつくるのが否定神学的な考え方で、「メタは幻想だが、その幻想が人間の条件だ」とあいだを取り持つのが郵便的な考え方、となるだろうか。
「手紙はかならず届く」ではなく、「手紙は届かないという形で届く」でもなく、「手紙は〈届かないかもしれない〉という内的な漂流とともに届く」ということ。
東はつねにこの3つ目の立場を確保する。
③率直に
裏方的な時間(会社員としての労働時間)に人生を支配されることにうんざりしていた私にとって、人間には客的な時間も必要だし、それらは表裏一体なんだ、という話はとても嬉しいものだった。みんな子どもから大人になっていくように、みんな客であり裏方なのである。
コメント
コメントを投稿