ドローイング、合唱、ページデザイン
「キャンパスの上にひとつの色を置く。その横にもう一つ、別の色を置く。すると2色の間に関係が生まれる。調和かもしれないし、違和かもしれない。いずれにせよマティスは関係を読み取り、3つ目の色を置く。もともと決めていた色ではない。2色の関係を見て、それに応対するように3つ目の色は置かれる。そのようにしてドローイングが出来上がっていく。」アンリ・マティスについて書いた誰かのテキストの中で、画家はこのようなことを述べていた。
「たとえばある曲から「確信とともに光に向かっていく」というイメージを演奏者が膨らませたとする。器楽はそれを楽器を通して表現することになるが、声楽にとっての楽器は身体であり、身体はイメージに従って状態を変えるので、表現がより直接的にイメージに影響される」と、合唱の先生が言っていた。音の条件として身体があり、身体の条件としてイメージがある。
「デザインには内的な必然性が必要である。ひとつの要素を置いた時、その他の要素はすべて、はじめの要素との関係によって位置や置き方を決めることになる」と、グラフィックデザインについての解説書に書かれている。この世界に重力があるように、ページ上で関係しあう要素は端を揃えたり、サイズで主従関係を表現したりする。
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ドローイング、合唱、ページデザイン。いずれも恣意的な表現に思えて、実はひとつ深い層にある種の必然性を抱えている。そうなるだけの理由がある。
では、その理由の下には何があるのか。キャンバスにはじめの色を置いた人、曲のイメージを膨らませた人、ページに必要な要素を決めた人。いずれも表現する人がいて、恣意的な選択がある。
すると表現には3つの層がある、ということになる。
1. 観客に届く表層
2. その下の必然性・構造の層
3. さらにその下の「はじめの一歩」の層
だが、これは罠かもしれない。3の下にさらに必然的な4がありうる。あるいは、そもそも1も2も3も同じ人物の表現なのだから、全て同じことを指しているのではないか、とも考えられる。
一番下に経験的な層を置くか、超越論的な層を置くか。ベタかメタか。
ひとまずこれでひとつの石を置いたことにする。
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