穴の形をした石――『雨夜の月』について

 


 青年と、同じくらいの年の女性が床に座って話し込んでいる。青年は都会の大学で文学を学ぶことが決まって、生まれ故郷を飛び出す日を心待ちにしている。幼なじみである女性は、応援していると言いつつもどこか我慢しているようだ。

青年はやがて都会へと旅立った。しかしその後、豪雨災害が故郷を襲い、人々は命を落とす。数年後、青年は再び故郷を訪れ、死者となった家族、そして幼なじみと再会する。

 

 

『雨夜の月』(あまよのつき)は、菅沼啓紀の脚本・演出による舞台作品である。今年1月に池袋で上演された。

田舎の価値観に反発する青年とそれを取り巻く人々が、災害を経て生者と死者として再会し、かつてのわだかまりをほどいていく様が描かれる。

菅沼は、この舞台を立ち上げる際のクラウドファンディングで「大切な人の喪失にどう向き合えばいいのかを考える」というテーマを掲げていた。実際に観客として舞台を見届けた私たちは、この舞台から何を汲みとることができるだろうか。

 

 

死者となった家族との対話を終えた青年は、ラストシーンで幼なじみと再会する。しかし、家族と違って、青年は彼女をまっすぐ見ることができない。青年は言う。「いま振り返ったら、君が消えてしまうかもしれないじゃないか」。

このセリフは、舞台の冒頭で語られる「オルフェウスの冥界くだり」というギリシャ神話の挿話に由来している。オルフェウスは、死んだ妻を取り戻すために冥府の王と交渉し、あることを条件に妻を冥界から連れ戻すことを許される。オルフェウスは妻を連れて地上へ向かうが、あと少しというところで、「決して後ろを振り返ってはならない」という、冥府の王から与えられた禁を破ってしまう。妻はオルフェウスの前で姿を消し、その後二度と会うことはできなかった。

『雨夜の月』のラストで描かれる青年と幼なじみの対話は、オルフェウスと妻のエピソードを再現している。だから青年は振り返ることをためらう。だが逡巡しつつも、「私を振り返って」と呼びかける幼なじみに応え、振り向いて幼なじみを抱きしめる。青年は「何度でも振り返る」と約束し、舞台の幕が下りる。

菅沼が掲げていた「喪失にどう向き合うか」というテーマを再び思い出せば、当然このシーンに答えが描かれていると考えられる。それは青年が腕の中の恋人に宣言するとおり、「何度でも故人を振り返り続ける」ということにほかならない。だが、舞台の上に現れていたものはもう少し複雑な、はっきりと答えを出せるものとは別の何かだったようにも思う。このひっかかりについて、もう少し考えてみたい。

 

 

なぜ、人は素直に喪失を受け入れることができないのだろうか。二つの理由が考えられる。

一つは、生者が死そのものを体験することができないから。

私たちが、目の前の家族や親しい人の存在を感じるのは簡単だ。だが、いなくなったこと、不在そのものを感じることはできない。たとえば残された部屋や、服や、写真といったものを通して感じるほかない。穴を覗くためにドーナツを作るように、生者はかつて現前(presentation)していたものを、別の仕方で再現前(re-presentation)させるほかない。死は、ドーナツの穴のように間接的にしか姿を現さない。

もう一つは、死があらゆる意味を拒むものだからだ。

特に事故や災害、自殺といった突然の出来事によって命を落としたとき。周りの人は、その死にさまざまな意味を見出そうとするが、最終的な結論を見つけることは決してできない。人の生が、たとえば多様な意味=解釈が流れ込む穴のようなものだとして(これは先ほどのドーナツの穴ではなく、井戸や排水溝のようなものだ)、それをピタッとふさぐ石が現れる。どんな意味づけも受け付けず、冷たく揺るがない出来事。それが死である()。

これらの理由をまとめると、大切な人の喪失とは、「穴の形をした石」の前に立ち止まるような体験だ。触れることもできず、どかすこともできない。仕方がないから、やがて人はその周りをウロウロと歩き始める。その歩みは、どこかオルフェウスの旅路に似ていないだろうか。

彼は死者を復活させようとして失敗したのではなかった。冥府の王に交渉し、冥界を下ってまた地上に戻っていく動線そのものが、生者が大切な人の死を前にどうにかこうにかする、つまりは喪に服していく歩みであった。それは成功か失敗かが試される冒険譚ではなく、その難しさ自体の物語である。

神話ではなく、私たちの卑近な例で考えてもそうだ。生き残ったものは遠回りに死を感じるほかない。しかしそれには時間がかかる。だから様々な試みを行う。墓を建てたり、お経を唱えたり、生前の思い出を語りあったりする。大切な人の喪失には、結末としての受容ではなく、受容していくプロセスだけがあると言ってもいい。



もう一度舞台のラストシーンに戻ろう。青年は死者となった幼なじみを文字通り「振り返る」ことを決意し、実践した。だがその前に、青年が振り返ることをためらい、死者に背中を向けていたその数分間こそ、作者が舞台上に立ち上げたかったものではなかったか。あるいは、導き出した「振り返り続けること」という結論もまた、何度でもその困難な時間に立ち戻ることを意味するに過ぎないのかもしれない。

「喪失とどう向き合うか」の答えではなく、「向き合うこと」そのものの長さと重さを描く。結論ではなく過程を描くことが、物語というものにできる数少ない、しかし替えのきかない役割だろう。

 

穴と石をめぐる解釈は、千葉雅也の著作『意味のない無意味』に拠っている。

 

舞台『雨夜の月』配信URL

https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/02hw3gqxacz21.html

 

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