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セザンヌ論:形と力についてのノート その4

ロジャー・フライ『セザンヌ論』 黒字=原文 青字=メモ 彼に充分な落ち着きとゆったりとした時間を与え、その着想の深みを探るためにいくらでも遅延を許したのは、他でもない、静物画だけであった。静物を前にしたとき、それもしおれやすい短命な花々ではなく、玉葱やりんご、あるいは他の丈夫で長持ちする果物を組み合わせたとき、彼は色彩の全体を深く探る分析を究めつくすまで追い続けることができたのである。この分析の途方に暮れるような迷宮の中で、彼がアリアドネの糸としてつねに堅持していたのは、色彩の変化は面の動きに呼応するという考えであった。彼は終始この呼応関係をさまざまな修正を通して探り出そうとしたが、それは固有色の変化を観察した結果に基づいていた。 面の動きとは、地球儀をまわさないまま眺めるように、立体物の表面を視線でなぞる動線を指すだろう。つまり「色彩の変化は面の動きに呼応する」とは、色(の変化)はそのまま形(の変化)である、ということだ。塗り絵のように、まず形があって次に色を属性として付与していくのとはまったく異なる。セザンヌにとっては色を描くことがそのまま形を描くことになる。 とにかくセザンヌが絵を描くのには時間がかかったのだろう。人間のモデルにはさんざん呆れられたのではないか。何度もモデルを務めた妻はすごい。 真の印象派たち、すなわちオーヴェールにおけるセザンヌの仲間のギヨーマンやピサロのような画家たちによって、面の運動感に呼応するこうした色彩変化は積極的に表現された。だが、彼らがもっと強い関心をもったのは視覚の色彩モザイクの複雑さをそっくりつかみ取ることであり、造形的形体を喚起する複合的全体の中からこれらの色彩表徴を分離・強調することの方ではなかった。彼らは自分たちの目が自然を知覚するために学んだ、途切れのない色彩の織物をカンヴァス上に織り込もうとしたのである。しかしこうした狙いはセザンヌのような性質の人間を完全には満足させなかった。知性は必ず明瞭な区分を追求するものである。自然の連続性を処理するには、自然は不連続なものとして理解されねばならない。組織化と分節化なしには、知性はどうすることもできない。そしてセザンヌについていえば、その知性は、もっと正確に言えば彼の感覚的反応における知的部分はその権利を全面的に主張したのである。 フライは印象派のなかでもセザンヌと他の画家に境...