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240806

 同人誌の原稿の準備を、こちらでも展開することにする。 『存在論的、郵便的』のどこを面白いと思うか、という問いを、自分にとっての何度目かのとっかかりとしていく。 同書は、「デリダはなぜ奇妙なテクストを書いたのか」という問いを出発点にする。 これが次第に変形していく。おおざっぱにいうと「郵便的脱構築とは何か」に向かう。 「なぜか」と問うことが「なにか」を問うことになっていく。この変形は何を意味するか。 「なに」を問うことは、水平移動である。六角形のシルエットが提示されて、カメラが徐々に視点を横へと移動していくと、細長い側面が見え、それが鉛筆だったと分かるような。 「なぜ」を問うことは垂直移動である。対象がいま在る状況の原因となったものを遡って発見していく。川を上っていくようなイメージである。 「なぜwhy」と「なにwhat」は基本的に別の動きである。 しかし、「なぜ」と問うことがそのまま「なに」の移動――対象を別の視点から把握する動きになる思考もある。それを「超越論的な問い」と呼ぼう。 超越論的な問いは、まず「なぜ」と問う。しかしそれは対象の直接的な「原因」を問うのではなく、対象がそう在るための「条件」を問う。 条件とは、対象を含めた大きな構造、あるいは構造の下部にある柱、土台のようなものを指す。 だから、「なぜ」によって垂直に移動することで、対象込みの構造が見えるようになり、水平的な移動も実現される。川上へと遡ったらダムがあったような感じである。

240331

東浩紀『存在論的、郵便的』を読む、という講座が終わった。約1年かけて、1冊の本に取り組む読書会だった。合計17回神保町に集まり、1節ずつ読んでいった。 いくつか書いておく。とりあえず今日は脱構築の話。(方法の話は次回) 講座が始まる前、自分はこのブログで、「脱構築について学びたい」から参加すると書いていた。郵便本では、じつに様々な言葉で脱構築が語られていた。あるときは「クラインの壺」と呼ばれる図形で、あるときは配達される手紙の比喩で、あるときは精神分析という手法として。 いま、改めて脱構築とは何かと自分なりに考えるなら、「超越論性を超越論的に論じること」=「メタ超越論」だと答えたい。「超・超越論」でもいい。 そもそも超越論とは、カントの言葉だった。人間は、物自体に直接アクセス(思考)することができない。しかし、間接的なアクセスの手法を明らかにすることはできる。思考の枠組みは「形式」と呼ばれ、『純粋理性批判』のなかでいくつも列挙される。 言い換えると、カント以降の伝統的な哲学の世界では、「思考可能なものはどのようにして可能になっているか」が論じられてきた。その副産物として、思考可能なものを可能にする何か、という一つ上の次元(メタレベル)を想定することになった。このメタな次元は、郵便本では「思考不可能なもの」と呼ばれる。 たとえ1。図にすると円錐のようなかたちになる。底面に思考可能なものの次元がある。頂上は、思考の形式、すなわち思考不可能なものである。頂上から吊り上げられる(規定される)ことで、底面は存在することができる。 たとえ2。英文法でいうと、思考可能なものは名詞とか形容詞といった一連の品詞の次元である。思考不可能なものは、be動詞の次元である。何かがある、ではなく、あることそのものの次元。 ところが、20世紀の哲学者である、ハイデガーやラカン、そしてデリダといった人たちは、この思考不可能な次元(思考の限界)をさらに思考しようとする。思考可能なもの(オブジェクトレベル)と、思考不可能なもの(メタレベル)がある、というのがカントだとして、ではその二分法は何を前提にしているのか、と問う。円錐の頂点はなぜ頂点でいられるのか。あるいは、be動詞はどのようにbe(存在)できるのか。この思考が脱構築である。円錐という構築物を脱臼するから脱構築。円錐の思考(超越論性)を相対化し...

240303

  ・カントのいう「事実問題」と「権利問題」の違いについて。 ・少し前にも書いたが、カントは「人間が何かを認識する」、というプロセスを説明しようとする。これはカント以前にも数々の哲学者が考えてきたテーマだが、カントには気に入らないところがある。それは、認識が「はじまる」ことと、認識が「生まれる」ことが区別されていない、ということである。 ・認識は経験によって「はじまる」。気を失った人物が、暗闇のなか聞こえる声や物音、差し込んでくる光によって徐々に意識を取り戻していく、という描写はドラマでよくあるが、そんなイメージである。何かの対象から、音や光を受け取るという経験によって認識はスタートする。 ・過去の哲学者(カントが引き合いに出すのはジョン・ロック)は、このプロセスを記述することで「認識とはなにか」を説明していた。哲学史的には「イギリス経験論」といわれる考え方である。 ・カントは、ロックの仕事は必要な作業だと認めつつ、これだけでは問題に半分しか答えていないとする。認識はたしかに経験とともにスタートするが、そもそも経験する前から人間の認識には備わっている何かがあるだろう、という。パソコンのたとえで言えば、スイッチを押せばプログラムが起動するのは間違いないが、それはスイッチを押す前からプログラムがあるということ。カントは、そのプログラムがどう書かれているかに注目せよという。つまり、認識の「はじまり」ではなく「生まれ」の方を考えるのが哲学の本当の仕事である。「経験による系譜を示す出生証明書とはまったく異なる出生証明書を提示する必要がある」。 ・では、そのプログラムとは、認識の「生まれ」には何があるのか。カントは人間の認識を2つのプロセスに分けている。「感性」による対象の受容と、それに続く「知性」による思考である。そして、感性と知性にはどちらにもある種の「形式」が備わっている。感性は「空間」と「時間」の 2 種。知性は「単一性」とか「因果性」などの 12 種。これらの形式こそが、認識が生まれ持っている、カントの言葉でいえば「アプリオリに純粋な」プログラムである。 ・因果性を例に出すなら、夕焼けが赤いと翌日は雨が降るという認識は、人間が経験から学びとったものである。だが「 A が起きると B が起きる」という思考、つまり因果性の形式自体は生まれ持...

240215

 『純粋理性批判』を読んでいくなかで、気になっているポイントがいくつかある。 ①理性とは何なのか? 意外に説明されない。本文では、人間が持つ2つの能力(対象の像を受け取る「感性」と、それを思考する「知性」)とは何かがひたすら論じられている。しかし、書名にも登場する理性という言葉は、それらと名前が似ているにもかかわらず、次元が異なる言葉のように思える。 たぶん、感性と知性という能力全体を指す、根っこの原理みたいなものが理性。それが何なのかをあれこれ議論する学問を「形而上学」、つまり哲学と呼ぶ。終わりなき闘い、みたいな表現もある。プラトンやらアリストテレスやらからはじまる長い長い闘い=プロジェクトをカントが引き継ごうとする。序文からは、「哲学に革命起こすで」みたいな気合はとにかく伝わってくる。いわく、哲学のなかでも最大の問題(神、自由、不死の3つ)を本のなかで論じていくとのこと。期待。 ②超越論的という言葉 これが知りたくて読みはじめたので、はじめて本文に登場したときは素直に感動した。 「わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ」。 「わたしは」からはじまっているのがいい。まさにカントが呼び始めたから。 たとえると、ジョジョ3部のはじめのほうではじめて「スタンド」が出てきて、「生命エネルギーが作り出す像なんじゃ」(実際のセリフは忘れた)と説明されたときのような感じ。以降のジョジョ、のみならず無数の漫画やゲームがこの定義から出発している。 同様に、カント以降の無数の哲学が、超越論的という方法を前提に、あるいは批判することで成り立っている。 もしかすると厳密にはカント以前にも同様の考え方があって、たまたまカントが名付けた名前が現在も使われているだけなのかもしれないが、それはこれから勉強すればいずれわかるたぶん。

240208

・「わたしたちのすべての認識は経験からはじまる。」 しかし、「すべての認識が経験から生まれるわけではない。」 「ここで問いたいのは、経験から独立した認識というものが、……存在するかどうかということである。」 「経験から独立した認識を、アプリオリな認識と呼んで、経験的な認識と区別することにしよう。経験的な認識の源泉はアポステリオリである。」 ・『純粋理性批判』はまずもって認識の由来を問うところからはじまる。その後も何度も出てきてこねくり回されるので、読んでいるとそもそもの意味があやふやになってくる。 ・認識、とはどのような行為を指すか?=この本は何をターゲットにしているか? ・日常的ではどんな意味で使っているか。たとえば仕事のときに「次の動きはAをする、という認識で合ってますか?」とかいう。あるいは「それは認識がちょっと間違ってるんじゃないか」など。おおよそ「理解すること」の意味あいである。 ・辞書を引いてみよう。デジタル大辞泉 1 ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。また、そういう心の働き。「認識が甘い」「認識を新たにする」「認識を深める」「対象を認識する」 2 《cognition》哲学で、意欲・情緒とともに意識の基本的なはたらきの一で、事物・事柄の何であるかを知ること。また、知られた内容。 ・「理解すること」は合っていた。また、理解するという「行為」だけでなく、理解した「内容」も、同じ認識という言葉で指すようだ。 ・というか、「哲学で」というピタリの説明があるとは思わなかった。認識は意欲・情緒とはちがう、というのもポイントだろう。 ・冒頭の引用に戻る。わたしたち人間が物事を認識するということ、つまりそれが何なのかの内容を知ることは、すべて「経験からはじまる」。しかし、すべての認識が「経験から生まれる」わけではない。 ・はじまると生まれるは何が違うのか。現状の理解。PCのスイッチを押したり何かの操作を加えるとプログラムが「はじまる」。その後新規作成される(「生まれる」)テキストやらファイルやらはあるが、たとえばプログラム自体は「生まれた」わけではない。操作(経験)の前から生まれていたが、操作によって起動した(「はじまった」)のである。作動することと、新規作成することの違い。 ・次の話に突っ込んでしまったが、カントが問いたいのは、「経験から独立した認識...

240204

 ・哲学の、中でも難しい古典と言われている本は、だいたい入門書が出ている。たまたまだが去年はいろいろな入門書を読んだ。「資本論」、「存在と時間」、あとラカンの入門書。 ・本の原典を読むのと、入門書を読むのはどちらが先がよいか、という話がある。 ・その道のプロは「最初から原典を読んで、わからなくなったら入門書を読め」という人が多い。千葉雅也のような人は「カッコつけず入門書を大いに読め」という。 ・じぶんは、入門書は観光のガイドブックのようなものだと思う。原典は観光地そのものである。 ・イタリア観光のガイドブックなら、ローマにはコロッセオがあり、それはこんな歴史を持っていますとか、標識に書いてあるこの言葉はこういう意味です、とか書いてある。入門書を読むとは、そういう「ツボとかコツをあらかじめ知っておくこと」、あるいは「行かなくてもなんとなく行った気になること」でもある。 ・その後、実際にイタリアに足を運んでみるとどうか。ローマのコロッセオを訪れる。想像していたよりも大きくない。でも見た目はガイドブックで見たとおりだ。何気なく、ガイドブックで見た写真と同じ角度で写真を撮りたくなる。…という感じか。原典を読むと、ガイドブックが教えてくれたことを確認していく作業感が出る一方で、何かしら想像を裏切ったり上回ってくるものもある。 ・結論は、順番はどうあれどっちも読めばいい。のだが、もうひとつだけ原典にしかない力があって、それは本物感である。「これが、あのコロッセオですか~」と、こちらを感嘆させるような何か。ありがたみ。それは権威に他ならないので、別にヘコヘコする必要もないのだが、そうしたら「ありがたみとは何なのだろうな」と新たに考えればいい。 ・ところで、こういう文章を書くと、最後に「すべての観光地に行くことはできないが、イタリアについて語るならローマにいかないわけにもいかない。大事なのはとにかく足を動かし続けることだ。」のような、惹句めいたことを言いたくなる。でも、そういうのは考えたこととは関係がない。書いた時に気持ちよくなる以上の効果はない。オチなし、ぶつ切り、結論を出さないことに耐える。これも惹句だが。

240130

・佐々木敦『ニッポンの思想』に、「脱構築とは発見するものであって導き出すものではない」という意味のフレーズがあった。 ・発見することと導き出すこと。発見するとは、「じつは始めからこうだったんですよ」と、みんなが気づいていなかったことに気づかせること。導き出すとは、「こう考えるとこういう結論が出てきますね」、という新しいポイントを示すこと。 ・どちらも思考として有用というか、それぞれの面白さがあるが、その違いははっきりしているだろうか? ・文章をスタートからとりあえずのゴールに至る一本のコースだと想定する。ここまでの話は、ゴールを発見するか、ゴールを導き出すか、の違いである。 ・発見する方は、スタート地点からいろいろな道を通ったうえで、スタート地点にまで戻ってくるようなコースだろうか。しかし、それはまったく同じスタート地点ではなく、白かったものがじつは黒だった、というような視点の転換を伴った帰還である。とはいえ、あくまでその黒いものははじめからスタート地点に含まれていた、ので「発見する」ということになる。盲点に気づくように。 ・導き出す方は、あまり先例が思い浮かばないので想像だが、スタート地点からどんどん離れていくようなコースだろうか。しっかりした根拠や、みんなが納得する前提から離れて、思弁を深めていくような道のり。 ・ここまで書いて、これはカントの「分析判断」と「総合判断」と似ていると思った。『入門講義』いわく、分析判断とは、「すべてのコッカースパニエルは犬である」といった、「主語概念の中に述語概念があらかじめ含まれている」ような判断のこと。最初からわかっとるわい、というもの。総合判断とは、「すべての物体は燃える」といった、「主語概念を分析しても述語概念が含まれていない」、つまり調べてみなくてはわからないような判断のこと。 ・たぶん、東浩紀のいう「文系的な知」が分析判断あるいは発見する思考で、「理系的な知」が総合判断あるいは導き出す思考なのだと思う。だからカントは、数学(=理系)のような厳密な総合判断の学問として哲学(=文系)を定義する、という難題にチャレンジしたのだと思うし、一方の東はあくまで文系的な知の有効性を示すために脱構築=訂正可能性の哲学にこだわっているのだろう。 ・問題を言い換えてみよう。脱構築はつまらない分析判断≒トートロジーなのだろうか?それとも、単...