240208
・「わたしたちのすべての認識は経験からはじまる。」
しかし、「すべての認識が経験から生まれるわけではない。」
「ここで問いたいのは、経験から独立した認識というものが、……存在するかどうかということである。」
「経験から独立した認識を、アプリオリな認識と呼んで、経験的な認識と区別することにしよう。経験的な認識の源泉はアポステリオリである。」
・『純粋理性批判』はまずもって認識の由来を問うところからはじまる。その後も何度も出てきてこねくり回されるので、読んでいるとそもそもの意味があやふやになってくる。
・認識、とはどのような行為を指すか?=この本は何をターゲットにしているか?
・日常的ではどんな意味で使っているか。たとえば仕事のときに「次の動きはAをする、という認識で合ってますか?」とかいう。あるいは「それは認識がちょっと間違ってるんじゃないか」など。おおよそ「理解すること」の意味あいである。
・辞書を引いてみよう。デジタル大辞泉
1 ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。また、そういう心の働き。「認識が甘い」「認識を新たにする」「認識を深める」「対象を認識する」
2 《cognition》哲学で、意欲・情緒とともに意識の基本的なはたらきの一で、事物・事柄の何であるかを知ること。また、知られた内容。
・「理解すること」は合っていた。また、理解するという「行為」だけでなく、理解した「内容」も、同じ認識という言葉で指すようだ。
・というか、「哲学で」というピタリの説明があるとは思わなかった。認識は意欲・情緒とはちがう、というのもポイントだろう。
・冒頭の引用に戻る。わたしたち人間が物事を認識するということ、つまりそれが何なのかの内容を知ることは、すべて「経験からはじまる」。しかし、すべての認識が「経験から生まれる」わけではない。
・はじまると生まれるは何が違うのか。現状の理解。PCのスイッチを押したり何かの操作を加えるとプログラムが「はじまる」。その後新規作成される(「生まれる」)テキストやらファイルやらはあるが、たとえばプログラム自体は「生まれた」わけではない。操作(経験)の前から生まれていたが、操作によって起動した(「はじまった」)のである。作動することと、新規作成することの違い。
・次の話に突っ込んでしまったが、カントが問いたいのは、「経験から独立した認識があるのではないか」ということ。人間の認識には、何かを見たり聞いたり考えたりするその場の経験(PCの操作)よりも前の認識(プログラム)があるのではないか。それを「アプリオリな認識」と呼ぶ。経験からはじまる認識はアポステリオリな認識。
・アプリオリな認識とは、「起動前のプログラム」のこと。千葉雅也がたしか『現代思想入門』か「ゲンロン」の対談かで言っていたが、カントは人間の「思考のOS」の存在を明らかにした。その譬えに依っている。
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