240303
・カントのいう「事実問題」と「権利問題」の違いについて。
・少し前にも書いたが、カントは「人間が何かを認識する」、というプロセスを説明しようとする。これはカント以前にも数々の哲学者が考えてきたテーマだが、カントには気に入らないところがある。それは、認識が「はじまる」ことと、認識が「生まれる」ことが区別されていない、ということである。
・認識は経験によって「はじまる」。気を失った人物が、暗闇のなか聞こえる声や物音、差し込んでくる光によって徐々に意識を取り戻していく、という描写はドラマでよくあるが、そんなイメージである。何かの対象から、音や光を受け取るという経験によって認識はスタートする。
・過去の哲学者(カントが引き合いに出すのはジョン・ロック)は、このプロセスを記述することで「認識とはなにか」を説明していた。哲学史的には「イギリス経験論」といわれる考え方である。
・カントは、ロックの仕事は必要な作業だと認めつつ、これだけでは問題に半分しか答えていないとする。認識はたしかに経験とともにスタートするが、そもそも経験する前から人間の認識には備わっている何かがあるだろう、という。パソコンのたとえで言えば、スイッチを押せばプログラムが起動するのは間違いないが、それはスイッチを押す前からプログラムがあるということ。カントは、そのプログラムがどう書かれているかに注目せよという。つまり、認識の「はじまり」ではなく「生まれ」の方を考えるのが哲学の本当の仕事である。「経験による系譜を示す出生証明書とはまったく異なる出生証明書を提示する必要がある」。
・では、そのプログラムとは、認識の「生まれ」には何があるのか。カントは人間の認識を2つのプロセスに分けている。「感性」による対象の受容と、それに続く「知性」による思考である。そして、感性と知性にはどちらにもある種の「形式」が備わっている。感性は「空間」と「時間」の2種。知性は「単一性」とか「因果性」などの12種。これらの形式こそが、認識が生まれ持っている、カントの言葉でいえば「アプリオリに純粋な」プログラムである。
・因果性を例に出すなら、夕焼けが赤いと翌日は雨が降るという認識は、人間が経験から学びとったものである。だが「Aが起きるとBが起きる」という思考、つまり因果性の形式自体は生まれ持ったものである、とするのがカントの新しい視点だった。
・カントは、認識の生まれを探究するみずからの試みを「超越論的な根拠づけ」と呼び、ロックのように認識のはじまりを説く「経験的な根拠づけ」と区別する。
・ロックは、人間の認識とはどのようなものか、というテーマを、こういうプロセスで行われている、という「事実問題」として処理した。プログラムはこう動作しますよ、というベタな説明。
・しかし、カントは同テーマを「権利問題」として考える。そもそもどういう根拠で認識が行われているか、その権利を問う。プログラムは実はこんなルールに従って書かれていますよ、というメタな説明。
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