240204

 ・哲学の、中でも難しい古典と言われている本は、だいたい入門書が出ている。たまたまだが去年はいろいろな入門書を読んだ。「資本論」、「存在と時間」、あとラカンの入門書。

・本の原典を読むのと、入門書を読むのはどちらが先がよいか、という話がある。

・その道のプロは「最初から原典を読んで、わからなくなったら入門書を読め」という人が多い。千葉雅也のような人は「カッコつけず入門書を大いに読め」という。

・じぶんは、入門書は観光のガイドブックのようなものだと思う。原典は観光地そのものである。

・イタリア観光のガイドブックなら、ローマにはコロッセオがあり、それはこんな歴史を持っていますとか、標識に書いてあるこの言葉はこういう意味です、とか書いてある。入門書を読むとは、そういう「ツボとかコツをあらかじめ知っておくこと」、あるいは「行かなくてもなんとなく行った気になること」でもある。

・その後、実際にイタリアに足を運んでみるとどうか。ローマのコロッセオを訪れる。想像していたよりも大きくない。でも見た目はガイドブックで見たとおりだ。何気なく、ガイドブックで見た写真と同じ角度で写真を撮りたくなる。…という感じか。原典を読むと、ガイドブックが教えてくれたことを確認していく作業感が出る一方で、何かしら想像を裏切ったり上回ってくるものもある。

・結論は、順番はどうあれどっちも読めばいい。のだが、もうひとつだけ原典にしかない力があって、それは本物感である。「これが、あのコロッセオですか~」と、こちらを感嘆させるような何か。ありがたみ。それは権威に他ならないので、別にヘコヘコする必要もないのだが、そうしたら「ありがたみとは何なのだろうな」と新たに考えればいい。

・ところで、こういう文章を書くと、最後に「すべての観光地に行くことはできないが、イタリアについて語るならローマにいかないわけにもいかない。大事なのはとにかく足を動かし続けることだ。」のような、惹句めいたことを言いたくなる。でも、そういうのは考えたこととは関係がない。書いた時に気持ちよくなる以上の効果はない。オチなし、ぶつ切り、結論を出さないことに耐える。これも惹句だが。

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