240215
『純粋理性批判』を読んでいくなかで、気になっているポイントがいくつかある。
①理性とは何なのか?
意外に説明されない。本文では、人間が持つ2つの能力(対象の像を受け取る「感性」と、それを思考する「知性」)とは何かがひたすら論じられている。しかし、書名にも登場する理性という言葉は、それらと名前が似ているにもかかわらず、次元が異なる言葉のように思える。
たぶん、感性と知性という能力全体を指す、根っこの原理みたいなものが理性。それが何なのかをあれこれ議論する学問を「形而上学」、つまり哲学と呼ぶ。終わりなき闘い、みたいな表現もある。プラトンやらアリストテレスやらからはじまる長い長い闘い=プロジェクトをカントが引き継ごうとする。序文からは、「哲学に革命起こすで」みたいな気合はとにかく伝わってくる。いわく、哲学のなかでも最大の問題(神、自由、不死の3つ)を本のなかで論じていくとのこと。期待。
②超越論的という言葉
これが知りたくて読みはじめたので、はじめて本文に登場したときは素直に感動した。
「わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ」。
「わたしは」からはじまっているのがいい。まさにカントが呼び始めたから。
たとえると、ジョジョ3部のはじめのほうではじめて「スタンド」が出てきて、「生命エネルギーが作り出す像なんじゃ」(実際のセリフは忘れた)と説明されたときのような感じ。以降のジョジョ、のみならず無数の漫画やゲームがこの定義から出発している。
同様に、カント以降の無数の哲学が、超越論的という方法を前提に、あるいは批判することで成り立っている。
もしかすると厳密にはカント以前にも同様の考え方があって、たまたまカントが名付けた名前が現在も使われているだけなのかもしれないが、それはこれから勉強すればいずれわかるたぶん。
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