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12月, 2023の投稿を表示しています

231231

 ・「何度それをうまく表現し概念化しようと試みても、それでもなお私たちの解釈は依然として近似的なものに過ぎない、つまり依然として的を射ていない」ブルース・フィンク『ラカン派精神分析入門』 ・どんなにものを考えても、その理解の外側はかならずある。しかし、そのこと自体について考えることも、ものを考えるということの意味だろう。 ・どうせ近似的なものに過ぎないのならば、近似的なもの同士をあつめて新しい物語を書いてしまえばいい。どれだけ本物に近いかよりも、寄せ集めが新たな本物らしさを帯びているかどうかの方が重要に違いない。そのための労力を惜しんではいけない。

231230

・年明けの読書会に向けて精神分析の本を読んでいる。読んでもわかった!という気はしない。でも面白いということはますますわかってくる。 ・精神分析は欲望をあつかう。自分がどんな欲望を持っているかは、ふつうわからない。あれがしたいとかこれが欲しいという自覚はみんな持っているが、精神分析ではこれを「要求」といって、欲望とは区別する。要求には明確な対象があるが、欲望には対象がない。あるように見えるのだけれど、それを手に入れたとたんに欲望は消えてしまって、別のものに向いたりする。 ・たとえば、自分をそっけなく拒否する女性に対して興奮する男性がいるとする。男性は一生懸命その女性を求めるが、いざ女性が誘いに乗ってくると、とたんに興味を失ってしまうこのように、欲望は厳密な意味での対象は持っておらず、代わりに原因を持っている。欲望が何か(対象)に向くのではなく、何か(原因)によって欲望が動き始めるのである。先ほどの例では、女性が欲望の対象に見えるが、じつは「女性にそっけなく拒否されること」という原因だけがある。本の著者はこれを、「欲望は(対象に)引っ張られるのではなく(原因に)押し出される」と表現している。面白い。まえに書いた、意味と行為の順序の転倒にも通じる話である。 ・ひとは自分の欲望について全然わかっていない。でも欲望自体は見えないところで動いていて、体や心の症状として見えるところに出てくる。症状はだいたいひとを困らせるので、ひとは精神分析家のところにやってくる。そこで、自分は何を欲望しているのか、について考えることになる。考える手助けをするのが分析家の仕事である。 ・で、自分の幼少期や家族とのあいだに何かしら、欲望の原因を形づくる経験がある、と考えるのがフロイトやラカンである。ポイントは、お母さんと幼少期の自分という二者関係に、お父さんという第三者が割り込んでくる瞬間である。お父さんは、幸せいっぱいの空間に、突然「ルール」とか「世の中」みたいなものを盾に、「自立せい」と迫ってくる存在だ。これを経てひとは一種の挫折を味わい、幼少期の全能感を手放す代わりに、社会の一員である自分というイメージを獲得する。 ・ラカンいわく、このプロセスが上手くいかないと、精神病や倒錯になる。うまくいくと、こんどはルールへの意識が強くなりすぎて神経症になる。世の中の多数派は神経症らしい。本を読んでいて自...

231224

・最近書いているブログについて、「読んでこんなことを考えました」と文章を送ってくれた知り合いがいた。読んでくれて何かを考えるきっかけにしてくれるというのはうれしい。 ・よく言われる話だが、書くことで考えが整理されるというのがある。最近の記事も、本を読んでいるだけではいけないと思って書くようにした。そのための時間を作るというのも含めた試みとして。 ・しかしもう少し踏み込んでみると、「書くことで考えが整理される」というのは順序が転倒しているかもしれないとも思う。この言葉は、まずモヤモヤした考えがあって、次に書き起こすことで整理されますね、という意味だ。だが、本当に最初に考えがあるのだろうか。もしかしたら、書くことではじめて考えるとは言えないだろうか。書く前に考えがあるのではなく、書いた後に考えが発生する。あるいは、書くと同時に考える。 ・「書く」とはひとつの行為である。しかしやたらめったらテキトーな文字をパソコンに打てばいいというものでもなくて、何かしら意味が通るような文章を残そうとする。その「意味が通る」という考えてみれば曖昧な、あるような無いような道のようなものが、ここで「考える」と呼ばれるものである。 ・以前、「マイナス×マイナスの掛け算の答えはなぜプラスになるのか」という疑問について森田真生が書いていた。マイナス×マイナスは、それまでの小学校で教わっていた算数を理解するために用いていた意味(りんごが2つずつ入った袋を3つ持っている、など)が通用しない。意味を理解してから掛け算という行為に着手することができないから、多くの人がつまづいてしまう。しかし、ゼロを中心として、左に正の数、右に負の数を並べた数直線を引くことで、新たな意味の領野が開けてくる。マイナスの数を掛けるとは、数直線を「逆方向に進む」ということだ。マイナス×マイナスは、右(負の方向)を向いていた人が逆方向すなわち左(正の方向)に進むから、答えがプラスになる。このエピソードは、意味を理解してから掛け算という行為を始めるのではなく、まず数直線を引くという行為があってその後から意味がついてくる、という新たな理解のプロセスを示すものである。 ・意味と行為はなかよし兄弟だが、かならず意味がお兄さんというわけではない。行為が兄で、意味があとから生まれてくる弟ということもある。しかし私たちはつい意味が先にあってから...

231223

ものを考えるとはどういうことか、の続きその2。 ・以前、東浩紀の「哲学とは何か、あるいは客的-裏方的二重体について」という論文についてこのブログで取り上げた。きのう再読してみて、最近考えていることとどのように関係するかを考えた。 ・東の主旨はふたつある。ひとつは、現代人は「客的-裏方的二重体」であるということ。 ・社会にはものやサービスの消費者として「お客さん」のようにふるまう人と、ものやサービスを生み出す生産者として「裏方」として働く人がいる。これは王様と奴隷のような揺るがない区別なのかというと実はそうではなく、ほとんどの現代人は誰もがその2つの顔を使い分けているということである。リゾートのプールでぷかぷか浮いているお客さんも、次の日にはどこか別の職場でせっせと働いている。王様も奴隷もいなくなり、みんながいわば「大衆」になった。別の観点からいうと、世界全体が客と裏方で成り立つリゾートのようになったということでもある。こうして、現代人は「客的」な立場と「裏方的」な立場を往復することで生を成り立たせているから、「客的-裏方的二重体」と呼ばれる。 ・論旨のふたつ目は、そんな時代の哲学者の役割は、リゾートの仕組みを解き明かし、それを維持するためにお客さん=大衆とコミュニケーションしつづけることだ、ということ。 ・仕組みを解き明かすといっても、「リゾートは幻想にすぎない。裏方の苦労のうえに成り立っているのだから、解体すべし」と叫ぶのではない。裏方のひとだって、別の場所で客としてふるまうために働いている。すべてを解体してしまったら、働く理由がなくなってしまう。だから、人間にはリゾートの幻想が必要である。哲学者が解き明かす仕組みとは、その「人間が幻想を必要とする」という構造を指す。 ・一方、哲学者と並んで(一般的にはそれよりはるかに必要な専門職とされる)科学者やエンジニアがいるが、彼らはリゾートの物理的な仕組みを解き明かす、あるいは構築する人々である。仮にリゾートのお客さんがクレームを訴えたとしたら、科学者・エンジニアはその主張をデータで検証したり、数値を改善することはできる。しかし、そもそもその不平は本当は何を訴えているのか、といった部分を解決することはできない。それは、突き詰めれば「人はなぜリゾートを必要とするのか」に帰着するからだ。だから、それを考え、人々とコミュニケーシ...

231222

 ものを考えるとはどういうことか、の続き。 ・普段の生活や仕事で、ものを考えるということは基本ない。それでも、ものを考えるということに自分の立脚点を置くならば、「われ思う、ゆえにわれ在り」I think therefore I am.ということだ。冗談みたいな話だが。 ・わき道にそれるようだが、日常でものを考えるということは基本ない、ということについてもう少し考えよう。今のところ、生活vs. ものを考えること、という風に、ふたつが対立しているように思われるからだ。わき道のようでいて、本筋そのものかもしれない。 ・生活とは、具体的には会社に行って仕事をしたり、家事や育児をしたりする部分を指す。生きている時間のかなり大きな部分がこれである。とりあえず、本当にシンプルな感想に戻ってみるのだが、これは、本当に驚くべきことである。この事実に驚かなくなる、ということを一般に「社会人になる」と呼び、自分はもうすぐ30歳になるが、いまだに信じがたいほど驚いている。驚異であり、脅威である。 ・上記で生活と呼んでいる部分を、ひとまず「働く」という短い言葉に代表させてみよう。生きていくためには働かなければならない。あるいは、働くということがイコール生きていくことである、と言ってもよい。 ・これと並んでもうひとつ驚くべき事実は、誰もがそうだ、ということである。東浩紀だって会社を経営しなければならなかったし、柄谷行人だって大学で英語を教えなければならなかったし、福尾匠だって就活しなければならなかった。ものを考えることを仕事にする人々でさえ、働いて生きている(本当はそれぞれの「ものを考える」ということと働くということが密接に結びついていることもあるだろうが、ここでは深入りしない)。この事実は覚えておかなければならない。東の言葉でいう「裏方」である。人生のすべてを「客」として生きている人はいない。 ・ふたつの事実を確認した。生きていくということは、働くということである。そしてあらゆる人間がそうである。繰り返すが、これらのことが自分にとって自明であったことは今のところ一度もない。 ・働きたくない、こんな生活は間違っている、と思い続けた20代だった。違和感を表明しては、妥協点を探したり、この仕事なら許せるがあれは許せない、といった線引きをやり直し、また違和感に戻る日々だった。社会人として毎日...

231221

ものを考えるとはどういうことか。 ・書くことであり、書くように考えることである。文章を正しく読むこととは違う。正しく読むことは、発信者の意図をどれだけ正しく受け取れるかの勝負になる。書くことはそうではない。発信者が意図していないが、書いてしまっていることを読み取り、新しく書き加えることである。 ・話すことではない。それ以前に聞くことでもない。話すー聞くは、書くー読むとよく似ているが、ここではリズムの違いとして区別しておく。誰かが話し、それを聞き、応答としてまた話すというのは、キャッチボールのように規則正しいリズムで、間髪入れずに進行するゲームである。一方、書き、読み、書くのにはタイムラグがある。書かれたものをすぐには読めないし、すぐには書けない。話す人々からすれば、リズム感がものすごく悪く感じられるか、極端に遅く思えるだろう。しかしものを考えるには、リズムに乗ってはいけないのだと思う。リズムは、話す人と聞く人(および話し返す人)が、同じゲームを共有していますよと互いに承認し合うために流れる時間である。発信者が書いて/言ってしまっていること、すなわち無意識は、相互承認の外側にあると考えなければならない。既読無視、あるいはあいまいなスタンプで返事した後に、ものを考える時間が始まる。 ・ところで、前提として、書くためには、きちんと読む/聞くことが必要なのも間違いない。先に書いたことをひっくり返すようだが、自分なりに書くためには、まず誰かの言葉を読み/聞き、完璧とは言えないまでもおおよそは正しいという水準まで自分の理解を引き上げる必要がある。あくまでものを考えるための準備段階である。どれだけ正しく受け取れているか、は私たちの勝負の場ではない。本を正しく読むのは当然で、その先に新たな文章を書き始められるかの勝負である。 ・だが学校生活とか会社での仕事は、とにかく「受信の正しさの度合い」で勝負することを要求する。そして日常の多くの時間がそれに割かれるので、ものを考えることにたどり着くのは簡単ではない。それはもうそういうものなのだと、繰り返し自分に言い聞かせるほかない。裏方として働く時間は誰にもある。その現実から逃れること以上に、客としての自分を離さずにおくことの方が大事なのかもしれないと、この数日思い始めた。 ・先ほど、ものを考えるということを、自分なりに書く、と言い換えた。自...

231209

 自分が進んでいく道がわからなくなってきた。いちど整理しておく。 まず、職業訓練、家事、育児、合唱団、その他のことにかまけて、やるべきことを先延ばしにしてはいけない。大前提。ただやる。「時間があればできるのに」では、ステージにのれない。 では何をやるか。とりあえず、一番近くにあるのは『存在論的、郵便的』だ。購読の進捗にあわせて読みつつ、自分なりに整理していくことができる。できるかはわからないが、やるべきだろう。一度通ったカーナビの道をたどり直すように。そして自分なりの言葉、自分なりの順番で語り直せるように。いちど大まかに書いてから、それを少しずつ更新していくのもよいだろう。原典に帰ることは原点に還ること。内側を向いて混ぜていったり、並べ替えたりするような方向。 また、作業をとおして、別のいくつかの糸口を見つけることができるだろう。東浩紀の別の著作とのつながりや切断を探してみるとか。他には、日本語で書かれた「批評」について、その中心的な手法である「脱構築」について、フロイトやラカンを中心にした(そしてデリダ=東の中心でもある)「精神分析」について、デカルト・カント・ハイデガーと連なる「西洋哲学」について、などなど。外側に向かって脈を広げる方向。枝や根のように。 もうひとつ、合間合間に挟んでいく、まったく別のタイプの本を読んだり、何かを見たりすることも残しておきたい。読書会もそのひとつだが、他にも小説と映画。批評とは違う種類の言葉と、言葉とは違う種類の世界。まったく離れた場所に飛び移る、跳躍的な方向。 目論見どおりに行った試しがないから、今回もどこかで修正を迫られるだろう。でもそれでもよい。My Go!!!!!的な意味で。