231230
・年明けの読書会に向けて精神分析の本を読んでいる。読んでもわかった!という気はしない。でも面白いということはますますわかってくる。
・精神分析は欲望をあつかう。自分がどんな欲望を持っているかは、ふつうわからない。あれがしたいとかこれが欲しいという自覚はみんな持っているが、精神分析ではこれを「要求」といって、欲望とは区別する。要求には明確な対象があるが、欲望には対象がない。あるように見えるのだけれど、それを手に入れたとたんに欲望は消えてしまって、別のものに向いたりする。
・たとえば、自分をそっけなく拒否する女性に対して興奮する男性がいるとする。男性は一生懸命その女性を求めるが、いざ女性が誘いに乗ってくると、とたんに興味を失ってしまうこのように、欲望は厳密な意味での対象は持っておらず、代わりに原因を持っている。欲望が何か(対象)に向くのではなく、何か(原因)によって欲望が動き始めるのである。先ほどの例では、女性が欲望の対象に見えるが、じつは「女性にそっけなく拒否されること」という原因だけがある。本の著者はこれを、「欲望は(対象に)引っ張られるのではなく(原因に)押し出される」と表現している。面白い。まえに書いた、意味と行為の順序の転倒にも通じる話である。
・ひとは自分の欲望について全然わかっていない。でも欲望自体は見えないところで動いていて、体や心の症状として見えるところに出てくる。症状はだいたいひとを困らせるので、ひとは精神分析家のところにやってくる。そこで、自分は何を欲望しているのか、について考えることになる。考える手助けをするのが分析家の仕事である。
・で、自分の幼少期や家族とのあいだに何かしら、欲望の原因を形づくる経験がある、と考えるのがフロイトやラカンである。ポイントは、お母さんと幼少期の自分という二者関係に、お父さんという第三者が割り込んでくる瞬間である。お父さんは、幸せいっぱいの空間に、突然「ルール」とか「世の中」みたいなものを盾に、「自立せい」と迫ってくる存在だ。これを経てひとは一種の挫折を味わい、幼少期の全能感を手放す代わりに、社会の一員である自分というイメージを獲得する。
・ラカンいわく、このプロセスが上手くいかないと、精神病や倒錯になる。うまくいくと、こんどはルールへの意識が強くなりすぎて神経症になる。世の中の多数派は神経症らしい。本を読んでいて自分も神経症的な部分がたぶんにあるなと思った。
・これから考えてみたいのは、プロセス(疎外と分離という)のなかでお父さんが割り込んでくるとき、ひとは「言葉」を獲得する、ということについてである。言葉を得るということは、どうやら「象徴的な次元」を獲得するということらしい。象徴的とは、モノそのものではなく別のもの(たとえば幸せを運んでくる何かではなく、「ママ」という名前)でモノを置き換えることができる、ということでもある。この部分がわかるようで、まだはっきりとはわかっていない。でも、神経症的な世界(自分を含めて)が象徴的なものに支配されていることは、なんとなくわかる。「社会人はこうでなくてはいけない」とか、「ふつうはこうする」みたいな規範は、モノそのものではなく「一般的・理想的」な在り方として自分を置き換えろ、という話だからだ。
・社会は置き換え可能性で構成される。ひとは言葉を覚えることで社会に参入する。社会は言葉で出来ている。言葉とはルールである。そこからの逸脱もあるだろう。この辺のことをもう少し考えてみたい。
コメント
コメントを投稿