231222
ものを考えるとはどういうことか、の続き。
・普段の生活や仕事で、ものを考えるということは基本ない。それでも、ものを考えるということに自分の立脚点を置くならば、「われ思う、ゆえにわれ在り」I think therefore I am.ということだ。冗談みたいな話だが。
・わき道にそれるようだが、日常でものを考えるということは基本ない、ということについてもう少し考えよう。今のところ、生活vs. ものを考えること、という風に、ふたつが対立しているように思われるからだ。わき道のようでいて、本筋そのものかもしれない。
・生活とは、具体的には会社に行って仕事をしたり、家事や育児をしたりする部分を指す。生きている時間のかなり大きな部分がこれである。とりあえず、本当にシンプルな感想に戻ってみるのだが、これは、本当に驚くべきことである。この事実に驚かなくなる、ということを一般に「社会人になる」と呼び、自分はもうすぐ30歳になるが、いまだに信じがたいほど驚いている。驚異であり、脅威である。
・上記で生活と呼んでいる部分を、ひとまず「働く」という短い言葉に代表させてみよう。生きていくためには働かなければならない。あるいは、働くということがイコール生きていくことである、と言ってもよい。
・これと並んでもうひとつ驚くべき事実は、誰もがそうだ、ということである。東浩紀だって会社を経営しなければならなかったし、柄谷行人だって大学で英語を教えなければならなかったし、福尾匠だって就活しなければならなかった。ものを考えることを仕事にする人々でさえ、働いて生きている(本当はそれぞれの「ものを考える」ということと働くということが密接に結びついていることもあるだろうが、ここでは深入りしない)。この事実は覚えておかなければならない。東の言葉でいう「裏方」である。人生のすべてを「客」として生きている人はいない。
・ふたつの事実を確認した。生きていくということは、働くということである。そしてあらゆる人間がそうである。繰り返すが、これらのことが自分にとって自明であったことは今のところ一度もない。
・働きたくない、こんな生活は間違っている、と思い続けた20代だった。違和感を表明しては、妥協点を探したり、この仕事なら許せるがあれは許せない、といった線引きをやり直し、また違和感に戻る日々だった。社会人として毎日働き、生きている人からすれば、「なめてたんですね」の一言だろう(実際に言われたことがある)。20代が終わろうとしている今も、心情は大きく変わっていない。だが、ものを考えるということにスタート地点を設定したのだから、この未熟なところを「前提として」、始めなければならない。
・生きていくということは働くということである。そのことへの違和感は拭いがたい。「だとしても」、そのうえでものを考えて生きていく。いつまでも違和感にこだわって、細かな差異化の勝負をしない。違和感の追究はほどほどにして、まあまあと自分をなだめながら、別の場所で勝負する。
・「前提」という言葉を言い換えると、働くということは生きていくことの「条件」である。その条件があるから、ものを考えるということができる。勝負はそこからだ。こう書くとつまらない話だが、そんなところだ。
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