231221
ものを考えるとはどういうことか。
・書くことであり、書くように考えることである。文章を正しく読むこととは違う。正しく読むことは、発信者の意図をどれだけ正しく受け取れるかの勝負になる。書くことはそうではない。発信者が意図していないが、書いてしまっていることを読み取り、新しく書き加えることである。
・話すことではない。それ以前に聞くことでもない。話すー聞くは、書くー読むとよく似ているが、ここではリズムの違いとして区別しておく。誰かが話し、それを聞き、応答としてまた話すというのは、キャッチボールのように規則正しいリズムで、間髪入れずに進行するゲームである。一方、書き、読み、書くのにはタイムラグがある。書かれたものをすぐには読めないし、すぐには書けない。話す人々からすれば、リズム感がものすごく悪く感じられるか、極端に遅く思えるだろう。しかしものを考えるには、リズムに乗ってはいけないのだと思う。リズムは、話す人と聞く人(および話し返す人)が、同じゲームを共有していますよと互いに承認し合うために流れる時間である。発信者が書いて/言ってしまっていること、すなわち無意識は、相互承認の外側にあると考えなければならない。既読無視、あるいはあいまいなスタンプで返事した後に、ものを考える時間が始まる。
・ところで、前提として、書くためには、きちんと読む/聞くことが必要なのも間違いない。先に書いたことをひっくり返すようだが、自分なりに書くためには、まず誰かの言葉を読み/聞き、完璧とは言えないまでもおおよそは正しいという水準まで自分の理解を引き上げる必要がある。あくまでものを考えるための準備段階である。どれだけ正しく受け取れているか、は私たちの勝負の場ではない。本を正しく読むのは当然で、その先に新たな文章を書き始められるかの勝負である。
・だが学校生活とか会社での仕事は、とにかく「受信の正しさの度合い」で勝負することを要求する。そして日常の多くの時間がそれに割かれるので、ものを考えることにたどり着くのは簡単ではない。それはもうそういうものなのだと、繰り返し自分に言い聞かせるほかない。裏方として働く時間は誰にもある。その現実から逃れること以上に、客としての自分を離さずにおくことの方が大事なのかもしれないと、この数日思い始めた。
・先ほど、ものを考えるということを、自分なりに書く、と言い換えた。自分なりに、というところも大事だ。考えることはおよそ一人でしかできない。誰かと考えられることもあるのだろうがそれは幸運な例外である。あり得るとすれば、同じように考える人たちと、互いの存在を認め合うことだ。そしてこれは推測だが、ものを考えない人なんてそんなにはいないのだ。誰かのなかに、考える人を見つけられたら、その日はよい一日になるだろう。
・自分なりに考える、ということは、自由に考える、ということでもある。何にも縛られずに、常に動けるスペースを確保しながら、ゆっくりぶらぶら歩くように。
・逆に、文章のなかで自由でいることは、おそらく何かに縛られていても可能である。何かとはたとえば締め切りや、何かについて意見を述べよといった課題や、時間のなさ。そうした縛りを足掛かりにすればよい。書くために本を読んだり誰かの言葉を受け取ることだって、縛りのようなものなのだ。中空で歩くことはできない。正しく着地してから散歩を始める。
今回のブログは、福尾匠さんの日記(https://tfukuo.com/2023/12/18/231217/)で書かれていたことと、同氏の「群像」での連載「言葉と物」第1回で登場した、「批評とはもっとも自由な散文である」という一文を足掛かりにしている。
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