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ものを考えるとはどういうことか、の続きその2。


・以前、東浩紀の「哲学とは何か、あるいは客的-裏方的二重体について」という論文についてこのブログで取り上げた。きのう再読してみて、最近考えていることとどのように関係するかを考えた。

・東の主旨はふたつある。ひとつは、現代人は「客的-裏方的二重体」であるということ。

・社会にはものやサービスの消費者として「お客さん」のようにふるまう人と、ものやサービスを生み出す生産者として「裏方」として働く人がいる。これは王様と奴隷のような揺るがない区別なのかというと実はそうではなく、ほとんどの現代人は誰もがその2つの顔を使い分けているということである。リゾートのプールでぷかぷか浮いているお客さんも、次の日にはどこか別の職場でせっせと働いている。王様も奴隷もいなくなり、みんながいわば「大衆」になった。別の観点からいうと、世界全体が客と裏方で成り立つリゾートのようになったということでもある。こうして、現代人は「客的」な立場と「裏方的」な立場を往復することで生を成り立たせているから、「客的-裏方的二重体」と呼ばれる。

・論旨のふたつ目は、そんな時代の哲学者の役割は、リゾートの仕組みを解き明かし、それを維持するためにお客さん=大衆とコミュニケーションしつづけることだ、ということ。

・仕組みを解き明かすといっても、「リゾートは幻想にすぎない。裏方の苦労のうえに成り立っているのだから、解体すべし」と叫ぶのではない。裏方のひとだって、別の場所で客としてふるまうために働いている。すべてを解体してしまったら、働く理由がなくなってしまう。だから、人間にはリゾートの幻想が必要である。哲学者が解き明かす仕組みとは、その「人間が幻想を必要とする」という構造を指す。

・一方、哲学者と並んで(一般的にはそれよりはるかに必要な専門職とされる)科学者やエンジニアがいるが、彼らはリゾートの物理的な仕組みを解き明かす、あるいは構築する人々である。仮にリゾートのお客さんがクレームを訴えたとしたら、科学者・エンジニアはその主張をデータで検証したり、数値を改善することはできる。しかし、そもそもその不平は本当は何を訴えているのか、といった部分を解決することはできない。それは、突き詰めれば「人はなぜリゾートを必要とするのか」に帰着するからだ。だから、それを考え、人々とコミュニケーションする哲学者が必要となる。

・まとめると、人間は「客-裏方」を往復する存在である。その世界を成り立たせるためには、理系の専門家とは異なる文系の専門家(哲学者)が必要だ、というのが東の主張である。ちなみにこの論文は、世の中で多くの支持を集めているいくつかの言説に対する、反論として書かれている。たとえば「のんきに客として生きるのではだめで、搾取されている裏方の現実に目を向けるべきだ」という主張や、「大学の文系学部は役に立たないから必要ない」といった主張である。

・さて、どうしてこの論文を読みなおそうと思ったかというと、「ものを考える」という言葉が重要な意味を持つからである。東によると、人は客でいるときは「ものを考えない」。一方、自分が裏方であったり、裏方の人々の現実を知ると、差別や搾取について「ものを考える」。これが、私が最初に思っていたのとは逆だったのである。働いているとき、人はものを考えることができない。なぜなら忙しすぎるからだ。働くことから解放されるとき、すなわち客的な時間になってはじめて、ものを考えることができる。この区分は、経験的な実感にもとづいている。

・東は、「働かない=ものを考えない vs. 働く=ものを考える」という。しかし私の実感は「働かない=ものを考える vs. 働く=ものを考える」である。これは単純に東の話は違う!ということなのだろうか。いや、そうではなく、たぶん矛盾していない。整理してみよう。

・東は、人間の立場をふたつに分けている。客的なものを裏方的なもの。論文の中では、二項がさまざまな言葉で言い換えられている。以下にAvs.Bの対立としてリスト化しよう。

Aグループ 客的、リゾート、幻想、ものを考えない、動物、消費者、脱政治、平和、表層

vs.

Bグループ 裏方的、バックヤード、現実、ものを考える、人間、生産者、政治、戦争、深層

・一見、「Aにかまけていてはだめで、Bを知らなければ」という真面目な話に陥りそうになる。たしかに、AはBなしでは成立しない。かといって、AがなければBがある意味がない。AとBは対立しているのではなく、相互に必要としているというのが肝だ。

・先ほども書いたように、東はAの「考えないこと」を批判しているのではなく、AとBの両方があってはじめて世界は成り立つのだから、車の両輪のようにどちらも必要だと述べている。別の言い方をすると、リゾートとは、Aのお客さんだけが享受する幻想なのではなくて、Aの客もBの裏方も含めた全体の構造こそが「リゾート」、すなわち世界なのである。東は、リゾートという言葉をA=表層としての意味と、A&B=表層と深層をひっくるめた構造としての意味のふたつで用いている。

・それで、哲学者の役割とは、このA&Bの構造について考え、対立しがちな両者を橋渡しすることである。私が言いたいのは、この哲学者がやっている仕事が、本当の意味で「ものを考えること」なのではないかということだ。もちろん、Bの裏方的な場面で「ものを考える」のも必要だし、それで世界が変わることもあるだろう。働くことへの違和感を燃やし続けてきた自分としても、自然とBの立場に共感を覚える。しかし、そもそもAとBの差異は何なのか、とか、人間はどうやって両者を行き来するのだろうか、といったこの東の論文のような思考は、Bの側にいるだけでは難しいだろう。AもBも観察して構造化する、メタ意識のようなものが必要だからだ。

・先ほどの働く働かないの図式に戻ると、東の「働かない=ものを考えない vs. 働く=ものを考える」という式の底というか土台の部分に、「~という構造について考える」のような第3の立場があるのだ。そして、私の思う「ものを考える」とはここにあるのだと思う。客として(だけ)でも裏方として(だけ)でもない、第3の立場から考える。言い換えると、裏方として働いていようが、客として働いていなかろうが、ものを考えるのには関係ない。別の場所、つまり土台に向かって常に哲学者として働いている(=考えている)。まあ現実的には仕事中にその余裕はないだろう。だから、実感として客の時間でなければ考えることは難しい、という最初の直観は変わらない。でも、そこで考えるのは構造についてだ。表層のことだけでも、深層のことだけでもない。少なくとも「つもり」としては、そうである。別の場所で勝負する。そうでありたいと思う。

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