231224

・最近書いているブログについて、「読んでこんなことを考えました」と文章を送ってくれた知り合いがいた。読んでくれて何かを考えるきっかけにしてくれるというのはうれしい。
・よく言われる話だが、書くことで考えが整理されるというのがある。最近の記事も、本を読んでいるだけではいけないと思って書くようにした。そのための時間を作るというのも含めた試みとして。
・しかしもう少し踏み込んでみると、「書くことで考えが整理される」というのは順序が転倒しているかもしれないとも思う。この言葉は、まずモヤモヤした考えがあって、次に書き起こすことで整理されますね、という意味だ。だが、本当に最初に考えがあるのだろうか。もしかしたら、書くことではじめて考えるとは言えないだろうか。書く前に考えがあるのではなく、書いた後に考えが発生する。あるいは、書くと同時に考える。
・「書く」とはひとつの行為である。しかしやたらめったらテキトーな文字をパソコンに打てばいいというものでもなくて、何かしら意味が通るような文章を残そうとする。その「意味が通る」という考えてみれば曖昧な、あるような無いような道のようなものが、ここで「考える」と呼ばれるものである。
・以前、「マイナス×マイナスの掛け算の答えはなぜプラスになるのか」という疑問について森田真生が書いていた。マイナス×マイナスは、それまでの小学校で教わっていた算数を理解するために用いていた意味(りんごが2つずつ入った袋を3つ持っている、など)が通用しない。意味を理解してから掛け算という行為に着手することができないから、多くの人がつまづいてしまう。しかし、ゼロを中心として、左に正の数、右に負の数を並べた数直線を引くことで、新たな意味の領野が開けてくる。マイナスの数を掛けるとは、数直線を「逆方向に進む」ということだ。マイナス×マイナスは、右(負の方向)を向いていた人が逆方向すなわち左(正の方向)に進むから、答えがプラスになる。このエピソードは、意味を理解してから掛け算という行為を始めるのではなく、まず数直線を引くという行為があってその後から意味がついてくる、という新たな理解のプロセスを示すものである。
・意味と行為はなかよし兄弟だが、かならず意味がお兄さんというわけではない。行為が兄で、意味があとから生まれてくる弟ということもある。しかし私たちはつい意味が先にあってから行為がついてきたのだ、と転倒させてしまう癖をもっている。
・こういう場面を考えてみよう。つい悪事に手を染めてしまった人が捕まったとき、私たちは「悪いことをしようという意図があったのだろう」と推測する。しかし本人は「なぜかわからないがついやってしまった」という。私たちはそれを苦しい弁解だと退けようとする。ここで食い違いが生まれ、故意か過失か、という論点に整理されて裁判がはじまる。だが本当に考えるべきは、なぜ私たちは「先に」悪事の意図があったと推測するのだろうか、という問いである。
・書くと考える。行為と意味。過失と故意。これらはいろいろなテーマを連れてくる大きな問題だ。今日パソコンを引っ張りだすまで、こういう内容を書こうとはまったく決めていなかった。しかし、あとから読み返すと「当時はこんなことを考えて、記事にしようとしていたんだな~」と素朴に思うだろう。そのときすでに私は錯覚のなかにいる。

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