セザンヌ論つづき:形と力についてのノート その5

 ロジャー・フライ『セザンヌ論』 つづき

 黒字=原文

青字=メモ


セザンヌが輪郭づけた《果物皿》とグラスの形状を見れば、彼がこの調和的感覚に駆り立てられて、物体の視覚像すらどれほど制御したかがわかる。この二つの物を別にすれば、支配的なのは方形と球形のヴォリュームである。つまり、ありうる形体のうち最も基本的なのはこれらの形体なのである。しかし遠近法の視覚では《果物皿》とグラスの円形は楕円形に見えることとなる。そして、楕円はゴシック建築における撹乱的な効果でわかるように、まったく別種の感情を喚起する形体である。楕円は円や直線とはうまく調和しない。したがってセザンヌがそれらを両端の丸い長方形に変形しているのを見ても、なんら不思議ではない。この変形(デフォルマシオン)は楕円の優雅さと細長さを取り去り、代わりに球形がもつのと同じ重々しさと豊満さの特性をそれに付与している。

円が遠近法に従った形が楕円形なのに、画面上では円と楕円形は調和しない(だからお皿とグラスを楕円形に描かない)というのは不思議な話だ。遠近法も調和をもたらすルールには違いないが、そのイリュージョン的な調和と、セザンヌが目指す調和は違う、と著者は考えている。

 

ヴォリュームとマッスに対する実に強い感情、またそれらを極めて精確な形で表現したいという希求のために、物体の輪郭がセザンヌにとってほとんど強迫観念になったことは容易に理解できる。主として面の相互関係に専念する画家にとって、鋭い角度で、つまり強い短縮法で表現される面が何らかの悩みの種となることは自明の理である。このことは恐るべき問題を提出する――すなわち、カンヴァスの表面上で広がりを持たない面が、絵画空間の中ではそれでもなお十全の広がりを暗示しなければならないのである。完全な奥行き、形体の丸みと量感はこれいかんで決まる。実際、問題を複雑にしているのは、物体のこのヘリが多くの場合、異常な明るさを伴って見えるという事実であり、それが絵を見る人に、いわばカンヴァスの表面を思い出させてしまうことである。

この事態はセザンヌのデッサンに見てとれる。彼はほとんどつねに、あたかも明確で目立ちすぎる表現をことごとく避け、ここには次第に奥行き方向に短縮された面の連なりがあることを暗示するかのように、何本もの平行した筆致で繰り返し輪郭を描いている。彼は線描の技能を断念しなければならない。

物体のヘリがパキッと明るく見えること、あるいは一本の線でバシッと輪郭を決めることは、セザンヌの求める絵画空間にとって弊害になる。だが、ひとつ前の引用にあるように、遠近法でピシッと統治された空間でもいけないのがポイントだ。セザンヌの絵画空間に奥行きはある。しかし遠近法ではない。ボヤっとした、向こう側に面がつながっていることを暗示する曖昧な輪郭線。あるいは線と化した面。

 

純粋の印象派画家たちにとっては、この輪郭の問題はそれほど強く付きまとうものではなかった。彼らは視覚的な織物を切れ目なく織り上げることに心を奪われていたので、輪郭は彼らには特別な意味を持たなかった。輪郭はだいたい色調による表徴の総和によって――しばしば漠然と――示されている。しかしセザンヌの場合は、その力強い知性、明確な区分と堅牢な構成への情熱によって、輪郭は一つの強迫観念となった。その痕跡はこの静物画のいたるところに見て取れる。彼は実際に絵筆を使って、たいてい青みがかった灰色で輪郭を描いている。とうぜんこの輪郭線の湾曲は並行した斜線の筆触(ハッチング)と鋭い対照をなし、あまりにも目立ちすぎる。そこで彼はしきりに輪郭線の上に線影をなぞるので、線影は輪郭の周りに次第に積み重なり、非常に厚みを帯びている。輪郭は絶えず失われそうになるが、また再び現れる。輪郭の固定性と後退とをなんとか調和させようとする、彼のこうした根気強さと熱意はまことに並々ならぬものである。これは当然、ほとんど不器用ともいえるぎこちなさを絵の効果に対して与えてしまうが、結局は先に注目したあの堅牢さと重量感を形体に付与している。正しく両者の調停がここで達成されていることを、我々は認めざるを得ない。

何度か読んでやっとわかったが、「輪郭線、線影=グレーの線」を積み重ねることで、林檎の赤のような物体のヘリから分厚い線の外側の末端までが、「輪郭=見る人に認識される物体の形」になるということのようだ。

「輪郭の固定性と後退」とは、輪郭をはっきりさせたいというベクトルと、奥行きあるものとして微妙な表現をしたいというベクトルとの相克を指す。どちらも精確に表現するという意図は同じだが、出力は正反対である。セザンヌはそこを調停させたという。

 

一見して、ヴォリュームと輪郭はくっきりその正体を示している。それらは驚くべき単純さを具えており、はっきりそれとわかる。だが、見れば見るほどますます明確な限定から逃れてしまう。一見、輪郭が連なっているように見えるのは錯覚である。何しろ輪郭は端から端まで、各部分が至る所で質的に変化しているからである。最小の曲線の描法にしても同じものは見当たらない。かかる絶え間なき確認と打消しのために、まったく異なる条件から同様の結果が生まれてくる。こうしてわれわれはすぐ、全体的な結果においては極度の単純さ、各部分においては無限の変化という感想を得るのである。非常に生き生きとした生命感を見る人に与えているのは他でもない、この画法の本領とも言うべき、この無限に変化する特性である。形態の簡素さにもかかわらず、すべてのものが顫動(せんどう)し、運動感を示している。これらの作品ほど非図式的なものはあるまい。この絵のように、全般的な形体がほとんど幾何学的な外観を持っているような場合ですら、然りである。

ここは平倉圭の《サント・ヴィクトワール山》分析とほぼ同じことを言っている。離れて見たとき(全体)と、近づいて見たとき(部分)とで異なる単位の情報群が組織されている。「すべてのものが震えている」という表現も同じ。フライによれば、視覚に震えを感じるのは、目は物体の輪郭を線として追うが、よく見る、つまり目がピントを合わせ直すとき、面の暗示としての極小の線が並んでいるのに気づくからだ。線は切れたりつながったり、でこぼこしている。

 

老年になってから彼の洩らした文句がしばしば引用される。それは「自然の形体は全て、球形、円錐形、円筒形に還元される」という趣旨のものである。セザンヌがこれを客観的真理の発見、自然法則のごときものとみなしていたかどうか、疑わしく思う人もいよう。いずれにせよ、われわれはこの言葉の真意を、彼が自然の無限の多様性をなんとか処理せんと努める中で、現実の形体に関連づけ当てはめることのできる、一種の知的足場として便利な、これら三つの形体を発見したととるべきだろう。少なくともはっきりしているのは、セザンヌが自然の形体解釈において、きわめて単純な幾何学的形態によって考えると同時に、それらの形体を視覚的感覚によって随所で無限に細かく修正し得ることをつねに前提にしていると思われることである。実際これは、いつも突き当たる芸術上の問題に対する彼なりの解決策であった。それは、他の体験ではわれわれの理解を摺り抜けてしまうリアリティをもち、人間の理解力にすぐなじむような事物を創造する方法をどうやって見出すかという問題である。

物体をあるがままに描くのではなく、カントのカテゴリーのように、球形・円錐形・円筒形の組合せとして見ることではじめて絵画空間内の物体として扱える。前のノートで引用した「セザンヌは色彩のモザイクをそのまま写し取るのでなく、知性で分節化しようとする」話も、カントの枠組み、すなわち感性の後続部隊としての悟性(知性)になぞらえているのだろう。

一つ前の引用と同様に、フライはここでも「単純な幾何学的形体によって考える」ことと「無限に細かく修正する」ことの往還、マクロとミクロを自由にスイッチできることをセザンヌの特徴とみなしている。

 

絵に取り組む角度におけるこの構築の厳密さとプリミティヴな簡潔さはセザンヌの考えの本質を示している。ここではあらゆるものがその重量感、密度、抵抗感を強めている。ジョアシャン・ガスケ氏が書き留めた言葉がこれに関して思い合わされよう――「われわれが見るものはことごとく散乱し消滅してしまう。自然はつねに同一不変であるが、われわれの眼に映るものは何一つ存続しない。われわれの芸術は見る人に、自然のあらゆる変化の外見によってそれが持続しているという戦慄を与えるべきなのだ。それは自然を永遠なるものとして感じさせねばならない。」

謎めいた一文。自然を永遠なるものとして感じさせるために、変化する外見を描く。ふつうに考えれば矛盾している。

たとえばモネはどの画家よりも早いシャッタースピードを持ち、自然の瞬間を切り取った。同じアングルを朝や日中、夕方で描き分けた大聖堂の連作は並べて見ることで真価を発揮するとモネは言ったが、それはセザンヌの「変化によって永遠を感じさせる」に近しいものがある。

しかしセザンヌは異なるやり方を選んでいる。フライは「変化-永遠」探究の道筋を、画面構成へのこだわりに結び付けているようだ。セザンヌが理想としたバロック期の画家プッサンについてフライは書いている。「均衡を非常に激しく希求するあまり、あたかも詩の区切りのごとく、絵の中央によく目立つ線とか間隙を置いて、つねに構図を分割した」。

《果物皿》を思い出せば、画面の左上に「白い皿に盛られた果物」があり、反対の右下には「白い布に積まれた果物」がある。他にも無数に取り出せるであろう要素間の均衡したバランス、天秤がぴったりと静止している感覚。モチーフ自体のバランスではなく(皿の上の果物とテーブルの上の果物の実際の重量や形とは無関係に)、画面上で均衡が保たれていることが、自然の永遠性へのヒントとして見る人に与えられている、ということではないか。いずれ皿は片づけられ、リンゴは腐敗する。風景であれば葉は落ち、春にはまた新芽が吹きだす。いまそこにモノが見えることは偶然に過ぎないが、画面に写し取られたモノ同士の存在感には均衡という必然性が宿っている。

存在感の均衡。関係、というよりもドライな関係。空いた電車のなかで座る位置を決めるとき、他の乗客が視界に入りつつも互いに気にならないような位置を取る、みたいな。

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