『眼と精神』:形と力についてのノート その6
メルロ=ポンティの論文「眼と精神」は、人間にとって視覚とは何かを、セザンヌやクレーたち画家の眼を借りて考察する。
著者はある部分で、視覚とは「見えるものに対する、存在するものの歳差である」という。
歳差というのは天文学の言葉で、回るコマの軸自体がゆっくり首を回すように、地球の自転軸が23.4度傾いたままゆっくり回ること(歳差運動)により、天の赤道や星座といった空の風景が26,000年かけて入れ替わりまた戻る、その見かけ上の位置の差異である。
つまり、見える像=地球の自転も、存在=太陽や星の位置もどちらも平常運転しているのに、両者に必然的に生じてしまうズレ、そのようなものとして著者は視覚を定義している。
視覚=歳差について、もうひとつ出されている例が鉄道の線路である。
「彼方においても等間隔でありつづけようとするために収斂するレール。私から独立した世界であろうとするために私の遠近法に従うレール」という表現がある。
線路は存在としてはまちがいなく平行線である。しかしそのために、視覚においては遠いかなたで一点にくっつくように見えなくてはならない。逆に遠くでも平行に見えていたら、それは実際には平行ではない(手前側でくっついてしまう)。古代ギリシャの神殿の柱のふくらみ=エンタシスも同じ問題への対処である。
レールが遠近法に従うのは、世界が自分から見えるようにしか存在しないからではなく、世界が私から自律して存在しており、かつ私は遠近法的な眼を通してしか世界に触れられないからだ。
メルロ=ポンティはまた一言で、「眼は心の窓である」という。私と世界、大地と星、像と存在は一致しない。必ずズレ合っている。ズレを感じるための通風孔が眼であり、押し開く能力が視覚である。窓を開けた瞬間に肌で感じる涼しさ、私たちが「見ている」のはそういうものである。
では、絵画とは何か。
著者は画家の視覚について考察している。つまり人間が本来持つ視覚の本質を、画家だけがわかっているという前提で話している。絵画とはまず、画家の視覚が実現されたものである。
ふつう視覚とは、能動的に「見る」能力、あるいは光を受け取る器官として受動的に「見える」能力のどちらかで語られる。一方メルロ=ポンティは、視覚を能動性と受動性の両方による相互依存的な能力として捉えている。より正確には、画家による能動性と、モノによる能動性のぶつかり合いとして。
引用。「画家の視覚は、もはや〈外なるもの〉へ向けられた眼なざし、つまり世界との単なる「物理的・光学的」関係ではない。世界は、もはや画家の前に表象されてあるのではない。言わば〈見えるもの〉が焦点を得、自己に到来することによって、むしろ画家の方が物のあいだから生まれてくるのだ。そして最後に、画像が経験的事物のなかの何ものかにかかわるとすれば、それは画像そのものがまず「自己形象化的」(autofiguratif)だからにほかならない」
噛み砕いてみる。視覚は、世界と私の物理的・光学的関係ではない、と始まる。著者はこの論文の冒頭で科学の「上空飛行的思考」を批判している。世界を等質な状態に還元して説明できてしまう科学に対して、しかし飛べないのが人間ではないですか、と言おうとしている。さきほどのレールと窓の話と同じだ。
絵画に置き換えれば、科学において視野は眼を頂点として前方に広がる横倒しのピラミッドの形をしており、ピラミッドを垂直に切った断面図が絵画である(“絵画とは窓である”)、という「物理的・光学的」な説明が可能だが、それではない、という。
科学は説明としては正しいけれど、人間にとって視覚はそれだけのものではない。見えるものが「自己形象化」、すなわち「焦点を得、自己に到来することによって、むしろ画家の方が物のあいだから生まれてくる」。モノによる能動性だ。
ここを理解するために、論文の別の部分から拾ってこよう。
「〈精神〉が絵を描くなどということは、考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」
まず、絵を描くのは画家ではないということ。見ることは身体をとおして世界に触れることであり、絵を描くということは身体を世界に貸すことである。けっして画家の精神が超越的な立場から世界を表象するのではない。絵画とは世界の自画像である。
あるいは、「アンリ・ミショーが、時としてクレーの色彩は画布の上にゆっくりと生まれ、原初の根底から発出し、錆や黴のように「適地を選んで生えてきた」のではないかと思われることがある、と言っている」。
絵画には必然性がある。形や色は適地を選んで生えてくる(みたいに)。実際に筆を動かしているのは画家の手だが、そこには画家ならざるものの能動性が働いている。
モノによる能動性、すなわち自己形象化、黴や錆、世界の自画像。いずれも同じものを指しているのはわかるが、それは目の前の芸術作品においていったい何を指しているのか。
自分なりの解釈。
そもそもメルロ=ポンティにとって「眼」は「精神」あるいは頭よりもある種の優位に置かれている。なぜなら「眼は心の窓」、すなわち外の存在にアクセスできる唯一のポイントだからだ。精神をとおして存在をわかりやすくわかっちゃおうとするのではなく、より生(なま)に近い存在にアクセスする回路が眼であり視覚である。
著者は絵画とはひとつの「問いかけ」であるという。「この問いかけは、知っている者が知らない者へ向かってなす質問、いわば教師の質問ではない。それは〈知らない者〉が〈すべてを知っている視覚〉へ向かってなす質問なのであり、しかもわれわれがこの質問をするのではなく、この質問がわれわれのうちでなされるのだ」。
視覚こそが教師であり、画家は生徒だ。世界、存在を明らかにするためには視覚に従わなければならない。
ただし注意が必要だ。見えているものは存在そのものではない。視覚は存在に対して必ずズレている。だから、画家は「上空飛行的」に存在そのものを描こうとしてはならない。すると存在から離れてしまう。
ズレにこそ忠実でなくてはならない。逆説的だが、ズレることが存在へリーチすることになる。
具体例として彫刻家ロダンの説が登場する。
ロダンは、自ら動いて見えるような彫刻をいかにつくるかという問いに、「からだの諸部分の別の瞬間をつなぎあわせた像こそが動いて見える」と答えている。ハイスピードカメラのように、動いている人の一瞬を切り取っても、その像は静止したようにしか見えない。逆に、首、腕、腰、脚が実際には両立しえないような向きや形、すなわち不調和の形こそが動きを感じさせる。
存在しえない視覚(からだの形の不調和)こそが存在(からだの動き)を感じさせる。まさにズレに忠実であることだ。セザンヌの絵画にもロダンと同じ目を向けることができるだろう。
視覚というズレに忠実であろうとするとき、画家は精神の主導権を放棄しなくてはいけなくなる。モノによる自己形象化とは「頭じゃなくて眼で描く」ことの言い換えである。
自分でわかったように描こうとすると、かならず視覚を飛び越えてしまうからだ。
頭-精神ではなく、眼-モノに従うとき、画家はインスピレーションを得る。メルロ=ポンティは画家たちがさかんに「モノに見られている」などと主客を転倒させた言葉遣いをすることを重視している。インスピレーション、霊気を吹き込まれること。
「本当に、存在の吸気(インスピレーション)とか呼気(エクスピレーション)というものが、つまり存在そのものにおける呼吸(レスピレーション)があるのだ」。
光る一文である。呼吸はふたつの行為であり、ひとつではない。むかしプールの授業で息継ぎのためには水中で息を吐け、と言われた。吸う息があるから吐く息があり、吐く息があるから吸う息がある。
絵の話に戻せば、吸うことが見ること、吐くことが描くことだと言えるだろう。吸気と呼気を同時には行為できないように、私と世界、大地と星、像と存在の両方を見渡せる視座などない。互いを条件とする二元論の空隙がズレと呼ばれ、視覚と呼ばれる。窓を開けて出入りする空気、あるいは汽水域。
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