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余白と救急車

  朝、窓の外から救急車のサイレンが聞こえた。窓を開けると、ちょうど家の前の道を走り過ぎていくところだった。こどもは「きゅうきゅうしゃだ!」と見送った。   救急車が急いでいるということは、向かう先に(あるいはすでに車中に)痛みや苦しみに耐えている人がいるということだ。もしかすると、その側で冷や汗をかきながら当人を励まし続けている人もいるかもしれない。 しかし我々にとっては他人事である。物珍しいきゅうきゅうしゃ以上でも以下でもない。そしてそれでいいのだと直観的に思った。なにがいいのだろうか?   自転車に乗っていると、こちらへ向かってくる別の自転車とすれ違うことがある。道がせまければ、お互いに速度を緩めてぶつからないようにぬるっと身を交わし合う。思ったよりも近づくと「やべ、ぶつかる」と思うが、おおかた接触しない。ぶつからないと確信できる領域の外には、まだ数センチの余白がある。 自分の領域と相手の領域と、あいだにある余白。大丈夫という確信は持てなくとも、そうした不安を包んでくれるスペース。なんかそういうものが大事なのだと思う。   ひとと相談ごとをするとき、向いあうのではなく、並んで座るとよいと本に書いてあった。バーのカウンターや、車の運転席と助手席のように。ふたりが眺めているのは、余白である。自分でも相手でもないところ。 余白は救急車のように、誰かにとっての自分事かもしれない。しかし、いまのところ我々(わたしとあなた)にとっては他人事である。わたしでもあなたでもないフリースペース。そこにわたしを預ける。そのあいだ、ちょい自由になる。

株式会社カント

  カントの『純粋理性批判』 3 巻を読み終わった。光文社古典新訳文庫で出ているもので、全部で 7 巻ある。ここまで読むのに、長い中断を挟んで 1 年以上かかっている。かかりすぎ。 しかしともかく、切りのいいところまできた。来月は読書会の本でハードなものが控えており、しばらく続きは読めないので、ここらで一本カントのことを書いておこうと思う。   この本は長いのだが、何をそんなに書くことがあるのかというと、認識のメカニズムを書いている。 林檎がかならず地面に落ちるように、世界がどうして客観的な合理性を保っているのか。この問いにカントは、世界が合理的なのではなく、人間が持っている認識のメカニズムどおりにしか人間は世界を見ることができないから、あたかも世界が合理的であるように見えるのだ、と答えた。なぜウィンドウの右上には必ず×印があるのか、といったら「みんな Widows の OS を使っているからだ」ということだ(たとえ話)。物自体(プログラム)を直接認識することはできず、見えているのはすべて現象(デスクトップ)である、というのが基本のスタンスである。   それで、認識には 3 つの仮想的な能力みたいなものが必要とされていて、それぞれ感性、知性(訳によっては悟性)、理性と呼ばれる。こう聞くと、まあ視覚とか聴覚みたいなのが 3 つあるようなもんかなと思えるが、そういう風に並列になっていないのがミソである。感性、知性、理性は、この順番が大事である。①感性→②知性→③理性だ。この順番で働いてはじめて、人間は現象を認識することができる。   まず感性が対象を「直観」することで「像」が生まれ、知性がそれを「概念」として「思考」する、という順番である。(じつは『純粋理性批判』も 1 巻目が感性の仕組み、 2 ~ 3 巻が知性の仕組みという風にそのまんまの順番で書かれている。この本を、この順番で「認識」してみろというわけだ。そして 4 巻以降が理性の話なので、理性が「何」をするのかはまだ読んでいないためよく知らない。) これがよくわからない。直観とか概念とか、雲をつかむような話だ。 そこで、ドゥルーズはこの能力連合をコングロマリット(企業複合体)みたいに呼んだらしい。そのアイデアを少し拝借して、感性、知性を...

包摂と独立

  2 回前のブログでも取り上げたが、バトラーの『ジェンダー・トラブル』からはじめよう。   ジェンダー、つまり性にまつわることが人同士で「トラブル」になってしまうときがある。それは性が了解可能性をはみ出してしまうということだ。男と女という呼び名は、みんなが了解できるものとして呼びならわされている。そこからはみ出して見える人は、まわりの人の了解可能性をはみ出している。 たとえば男という言葉の了解可能性には多くの場合、女を好きになる=異性愛者という意味が含まれている。だから、男性用ロッカーで同じ時間に着替えている同僚に「彼女いるの?」と聞くことは、了解の範囲内での「自然な」行動である。ふたたびたとえば、好きになるのが女ではなく男である男に出会ったとき、先の質問者は了解できない。つまり呼び名がない。 だから、 LGBTQ という文字列で示されるような呼び名が与えられる。ゲイ、という呼び名が与えられることで、新たな了解可能性が作られる。男のひとを好きになる男=同性愛者、という意味が了解される。すると、男のひとに対して「彼女いるの?」と聞くことは間違いだということになる。「恋人いるの?」とか、あるいはそもそもそういう話題はふらない、といった結論が導き出される。   了解できることには、呼び名が与えられる。この考え方を正しいとするなら、世の中のジェンダーなトラブルは、どんどん呼び名を与えればいずれ解決するという話になるだろう。しかし、そう楽観的なことにはならない。 呼び名を与えて了解するということは、個別のジェンダーとトラブルを、限られた了解可能性に「包摂」するということだ。しかし、それは端的に不可能だ。男とかゲイとか、その他の呼び名を増やしても、それぞれのひとが直面している体や感情は必ずそこからはみ出してしまう。これは言葉のミクロな意味での限界だ。あるいはマクロな意味での齟齬もある。おなじ男であってもたとえば年齢や人種によって、その了解可能性は大きく異なるだろう。じゃあ青年や高齢者(前期、後期 … )、白人に黒人、とカテゴリを増やしても状況は変わらない。包摂は完成しない。しかし、完全に包摂から自由に生きられるかといえば、それも無理がある。 歌を聴いて聴衆が一体感を感じるとき、同じ気持ちを感じているわけではないにして...

面白いものを面白がる

  30 分で書けることを書いていこうと思う。 「書く」ことを自分の活動の主軸にしていく。何を書くかというと、おもしろい散文であれば何でもいい。名前をつけるとしたらやはり批評だろう。しかし、福尾匠の「エッセイではない批評などなく、批評でないエッセイなどない」という言葉がある。そのことにもっと自覚的になる。日々生きながら考えたこと(エッセイ)と、読みながら考えたこと(批評)が混ざり合っていく。そんな文章が理想である。   ここ最近かなり気が沈みがちだった。家族の病気のことが大きいのだが、より即物的には「時間がなく、金がない」からである。しかし、限られた条件でやるしかない。何をどうやろうか、と前向きに考えられるようになったのは、ちょっとしたきっかけがあった。   会社で弁当を食べながら開いたブラウザのおすすめ欄に、批評家のさやわかにインタビューした記事があった。『メタファー』という新作ゲームを開発したアトラスに密着取材した本をさやわか氏が上梓したらしい。ゲーム開発のリアルな舞台裏 ―― たとえば開発終盤に発見された不具合や改善案のどこまでを採用し、どこまでに目をつぶるかという判断の基準についてなどが語られているとのこと。いかにも仕事らしい話だ。自分も印刷物を作る会社に勤めているからよくわかる。 その本や件のゲームが面白いかどうかは置いておくが、記事を読んで、「面白いものはまだこの世に存在し、面白いものを作ろうとしている人がどこかにいる」ということに目を開かされた。時間がないとか、金がないという問題はそう簡単には解決しない。しかし、自分の苦境とは関係なく面白いものは世界にある。わからんが、あると信じることができる。面白いものがある、という事実に比べれば、時間や金は二次的な問題だ。逆に面白いものがなければ、いくら時間や金があっても寂しいだけだろう。   自分自身の関心をふりかえれば、面白いものが好きだというシンプルな話で終わる。批評は、面白いことについてさらに面白く語る、というスタイルのことである。だから好きなのだ。   小さいときに恐竜やウルトラマンにハマっていた時期があった。しかし子どもが「ハマる」のは、「面白がる」のとは少し違う。ハマるとは、そのことばかりが頭を占めて、絵に書き、し...