240922
同人誌に載せる座談会の修正をした。自分には「みたいな」という口癖があることがわかった。昔の言い回しでは「的な」みたいなニュアンスで使っている。「like a」。比喩の一歩手前というか、瞬間的にモードを変えますよというスイッチなのだろう。
それから、「、」を入れすぎる傾向がある。これは話しているときではなく、最初の修正で入れすぎたのだと思う。基本的には「、」が多い方が読みやすいが、多すぎると読む側が言葉の意味をつなげづらくなる。意味をつなげるというか、言葉を群れとして認識しづらくなる。効果的に使うことを覚えたい。例えば文を次の段階に進めたり、並列で並べたり、途中で向きを変えたり、流れを止めたりするとき。止めるときは素直に「。」か。
自分一人の原稿は前半がおおよそできたので、後半を作っていかなくてはいけない。散文的思考の自由はどのように実現されるか、という問いから始まった。前半では、超越論的な思考によって最も広いスペースを作れるのだということにした。
前半に追加できるか(すべきか)わからないが、超越論的哲学と脱構築はなんか違うのかという話も考えてみたい。料理にたとえたら、超越論的哲学は「料理を作ること」みたいな基礎的な話で、脱構築は「冷蔵庫にあるものだけでうまい晩飯を作ろう!」みたいな、YouTubeにありそうな具体的かつ応用的な話ではないか、といま思った。どちらのばあいも成果物として出てくる一皿があり、それが「統覚」とか「脱構築不可能なもの」とかいわれるやつ。でも脱構築の方がメソッド化されているから上げ下げ含めて話題になりやすい。
後半は前半を引きずり過ぎないように、違った構えというか語彙で進める必要がある。自由な空間を確保したとして、そこでどう踊るか(料理するかでもいいが)という、行為的なレベルの話をする。批評においてはレトリックの話であり、わざ言語であり、文学である。
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