240102

・テレビをつけると、犬のブリーダーを主人公にしたアニメが流れていた。主人公の男の子が子犬のプードルを飼い始めて、名前をさんざん悩んだ末に「サンタ」と決める。さっそくサンタ、サンタと呼ぶのだが、子犬はまったく言うことを聞かず、いたずらばかり。あげくは名前を呼ばれると唸って威嚇するようになってしまう。

・先輩ブリーダーは、話を聞いて即座に原因を見抜く。主人公は、子犬がいたずらを繰り返すたびに「サンタ、ダメ」「サンタ、やめなさい」と叱っていた。人間からすれば当然の言葉遣いだが、子犬にとってはサンタという名前がきわめてネガティブな意味を持ってしまったという。先輩によれば、犬にとって名前は、自分を指す特別な言葉ではない。それが聞こえれば主人から褒められたり、ご飯をもらえたりする、「ちょっとお得な言葉」にすぎない。だから、犬を叱るときには名前を呼んではいけない。逆に褒めるときにこそたくさん名前を呼ばなければならない。

・人間にとって名前は自分という存在を指す特別な言葉だが、犬にとっての名前は存在とは関係のない合図に過ぎない。ここでラカンの話を思い出す。人間の赤ん坊は、生まれたときにはモノの名前を知らない。だが、一番近くに感じている存在が「ママ」であったり「自分の名前」で呼ばれていることを悟ったとき、言葉を覚える。存在そのものの知覚から、言葉を介した知覚へとシフトする。これは一種の挫折でもある。ママと自分が一体となった存在そのものにアクセスできず、言葉を通した間接的なアクセスしかできなくなってしまうのだ。だが、父を含めた三者関係、さらにはもっと広い人間たちのコミュニティーに参加していくためには避けては通れない挫折である。これはA、あれはBと、言葉と言葉を使い分け、境界線を引いていくことで人間は世界を識別していくからだ。ラカンはこのプロセスを象徴的な意味での「去勢」という。

・現実への直接的なアクセスを遮断されること、すなわち名前を獲得することと引き換えに、人間は社会に参入する。犬はたぶん、現実への直接的なアクセスの回路を失わないのだろう。もちろん、犬には犬の家族や社会があるだろうが、それは人間の社会とは全く異なる構造をしているのだと思う。

・人間は言葉を得ることで、世界との関わり方について、他の動物とはちがう妙なやり方を選んでしまった。じゃあその妙なやり方、ラカンのいう「象徴界」とは何なのだろうか、という前にも書いた話に戻ってくる。言葉と現実はどのような関係を結んでいるのか。

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