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240130

・佐々木敦『ニッポンの思想』に、「脱構築とは発見するものであって導き出すものではない」という意味のフレーズがあった。 ・発見することと導き出すこと。発見するとは、「じつは始めからこうだったんですよ」と、みんなが気づいていなかったことに気づかせること。導き出すとは、「こう考えるとこういう結論が出てきますね」、という新しいポイントを示すこと。 ・どちらも思考として有用というか、それぞれの面白さがあるが、その違いははっきりしているだろうか? ・文章をスタートからとりあえずのゴールに至る一本のコースだと想定する。ここまでの話は、ゴールを発見するか、ゴールを導き出すか、の違いである。 ・発見する方は、スタート地点からいろいろな道を通ったうえで、スタート地点にまで戻ってくるようなコースだろうか。しかし、それはまったく同じスタート地点ではなく、白かったものがじつは黒だった、というような視点の転換を伴った帰還である。とはいえ、あくまでその黒いものははじめからスタート地点に含まれていた、ので「発見する」ということになる。盲点に気づくように。 ・導き出す方は、あまり先例が思い浮かばないので想像だが、スタート地点からどんどん離れていくようなコースだろうか。しっかりした根拠や、みんなが納得する前提から離れて、思弁を深めていくような道のり。 ・ここまで書いて、これはカントの「分析判断」と「総合判断」と似ていると思った。『入門講義』いわく、分析判断とは、「すべてのコッカースパニエルは犬である」といった、「主語概念の中に述語概念があらかじめ含まれている」ような判断のこと。最初からわかっとるわい、というもの。総合判断とは、「すべての物体は燃える」といった、「主語概念を分析しても述語概念が含まれていない」、つまり調べてみなくてはわからないような判断のこと。 ・たぶん、東浩紀のいう「文系的な知」が分析判断あるいは発見する思考で、「理系的な知」が総合判断あるいは導き出す思考なのだと思う。だからカントは、数学(=理系)のような厳密な総合判断の学問として哲学(=文系)を定義する、という難題にチャレンジしたのだと思うし、一方の東はあくまで文系的な知の有効性を示すために脱構築=訂正可能性の哲学にこだわっているのだろう。 ・問題を言い換えてみよう。脱構築はつまらない分析判断≒トートロジーなのだろうか?それとも、単...

240117

・『カント入門講義』を読んで(まだ途中だが)思ったこと。 ・わたしたちが認識する世界は、それぞれが心のなかで構築した世界にほかならない。世界そのものは存在するが、そこに直接アクセスすることはできない。という超越論的観念論の仕組みを、LINEのチャット画面で例えたらどうかと思った。 ・AさんとBさんがやりとりしているとする。チャットの画面では、自分の発言が右側、相手の発言が左側に表示される。だから、AさんとBさんがそれぞれ見ているチャットの画面は少しだけ違う。Aさんの画面はBA。Bさんの画面ではABである。 ・自分の見ている世界(画面)と、相手が見ている世界(画面)はまったく同じではない。では、世界そのもの(チャットの会話そのもの)がないかというと、サーバーのどこかには確実に存在している。しかし、そこに直接アクセスすることはできず、ひとが見られるのはあくまで画面のみである。 ・LINEのスタンプが右側を向いていることから思いついた。

240112

 ・正しいことを言うのは簡単だ。正しいとは、事実として正しいとか誤りだ、という意味ではなく、倫理的に正しいという意味で。 ・正しいことは誰でも思いつく。なのに、正しいことは言うと一時的に気分がよくなる。だからつい言ってしまう。 ・ツイッターの「おすすめ」タブには、松本人志はだめだとか、地震のときは無謀なボランティアは控えろとか、同じようなつぶやきが溢れている。仕組み上、同じようなつぶやきを表示するようになっているのだろうが、とにかく違う人々が同じようなことを言っては同じような数の支持を得ているのが見える。 ・「正しい言葉」はシンプルである。わかりやすいから、すぐに自分のものにできてしまう。何かを言った気になる。 ・職業訓練校の一日講師として、公務員に近い立場で長く海外で働いてきた年配の方がきた。戦後、GHQは日本が悪いことばかりしたと教え込んだが、アジアの人たちはみんな日本のおかげで独立できたと感謝している、といった話を繰り返していた。それもある面では正しいのだろう。わかりやすさにわかりやすく飛びつくその仕草。 ・正しい言葉ほどつまらないものはない。「おもしろい」の対義語は「正しい」かもしれない。

240102

・テレビをつけると、犬のブリーダーを主人公にしたアニメが流れていた。主人公の男の子が子犬のプードルを飼い始めて、名前をさんざん悩んだ末に「サンタ」と決める。さっそくサンタ、サンタと呼ぶのだが、子犬はまったく言うことを聞かず、いたずらばかり。あげくは名前を呼ばれると唸って威嚇するようになってしまう。 ・先輩ブリーダーは、話を聞いて即座に原因を見抜く。主人公は、子犬がいたずらを繰り返すたびに「サンタ、ダメ」「サンタ、やめなさい」と叱っていた。人間からすれば当然の言葉遣いだが、子犬にとってはサンタという名前がきわめてネガティブな意味を持ってしまったという。先輩によれば、犬にとって名前は、自分を指す特別な言葉ではない。それが聞こえれば主人から褒められたり、ご飯をもらえたりする、「ちょっとお得な言葉」にすぎない。だから、犬を叱るときには名前を呼んではいけない。逆に褒めるときにこそたくさん名前を呼ばなければならない。 ・人間にとって名前は自分という存在を指す特別な言葉だが、犬にとっての名前は存在とは関係のない合図に過ぎない。ここでラカンの話を思い出す。人間の赤ん坊は、生まれたときにはモノの名前を知らない。だが、一番近くに感じている存在が「ママ」であったり「自分の名前」で呼ばれていることを悟ったとき、言葉を覚える。存在そのものの知覚から、言葉を介した知覚へとシフトする。これは一種の挫折でもある。ママと自分が一体となった存在そのものにアクセスできず、言葉を通した間接的なアクセスしかできなくなってしまうのだ。だが、父を含めた三者関係、さらにはもっと広い人間たちのコミュニティーに参加していくためには避けては通れない挫折である。これはA、あれはBと、言葉と言葉を使い分け、境界線を引いていくことで人間は世界を識別していくからだ。ラカンはこのプロセスを象徴的な意味での「去勢」という。 ・現実への直接的なアクセスを遮断されること、すなわち名前を獲得することと引き換えに、人間は社会に参入する。犬はたぶん、現実への直接的なアクセスの回路を失わないのだろう。もちろん、犬には犬の家族や社会があるだろうが、それは人間の社会とは全く異なる構造をしているのだと思う。 ・人間は言葉を得ることで、世界との関わり方について、他の動物とはちがう妙なやり方を選んでしまった。じゃあその妙なやり方、ラカンのいう「象徴界」...