サマリー 柄谷行人『探究Ⅰ』
柄谷行人の著書「探求Ⅰ」を読み終えた。節ごとに要約したものをまとめてみた。ニーチェのアフォリズムのようで、これだけでも読み応えがある。
本のメッセージは、これまでの哲学が向き合ってこなかった「他者」という概念をちゃんと考えてみようというもの。もちろん他者は多くの哲学が取り上げてきたのだが、それらは同じルールを共有する相手が想定されていた。つまり、本当の「他者」ではなかったのである。話が通じる人とのコミュニケーションは、対話(ダイアローグ)ではなく自己対話(モノローグ)にすぎない、と柄谷はいう。
そこで本当の他者について考えてきた数少ない哲学者の筆頭が、本作の主人公といえるウィトゲンシュタインである。相棒がマルクス。仲間にキルケゴール、ドストエフスキー、デカルト。遠くの親戚にソクラテス。
彼らはずばり「他者について考えよう」と言ったわけではない。しかし柄谷からすると、彼らはひとつの態度を共有している。本当の他者と向き合うには、意味が通じるかわからないままコミュニケーションに挑む、いわば「命がけの飛躍」が必要だということ。
去年は「存在論的、郵便的」など東浩紀の本を読んだ。今年は柄谷行人の本(の有名なやつ)を読んでいきたい。
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第一章 他者とはなにか
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ウィトゲンシュタインは言葉について考えるとき、「教える-学ぶ」関係を前提にしようと言った。たとえば外国人、子ども、精神病患者。哲学の伝統である「語る-聞く」関係からの態度変更。本書の態度もそれに倣う。
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教える-学ぶ、あるいは売る-買うは非対称的な関係。その相手が他者であり、そのコミュニケーションを対話と呼ぶ。語る-聞くという対称的な関係は、他者ではなく自己対話(モノローグ)。我々はそれをノーマルだと思いこむが、コミュニケーションとしてはむしろ例外的。
3 デカルト
モノローグ哲学の始まりとされるデカルトだが、実はわれ思うではなくわれ疑うについて考えようとしていた。思考主体ではなく、異質なものによって外部に出ようとする主体。他者に出会おうとする主体。後世はそれを思考主体と短絡してしまった。
4 マルクス
彼は経済学に根本的な非対称性を見出した。ものとものとの交換には、確実な根拠はまったくない。でも、交換できるという慣習によって、同じ価値があると信じられているに過ぎない。そうした交換が行われるのが社会(=共同体と共同体の間)。共同体は同じ価値を共有できる人々。
5 ソシュール
マルクスは、貨幣が、社会で交わされる交換の無根拠・非対称性を、あたかも合理的・対称性に基づいているかのように隠蔽すると指摘した。ソシュールもまた、言葉の意味とは積極的に存在するのではなく、本来は差異しかないことを指摘した。意味とは価値から派生するものでしかない。
6 バフチン
バフチンはソシュールを主観的だと批判して、言葉とはそもそも二面性のものだと言った。誰によるものか、そして誰のためのものか。言葉とは、話し手と話し相手の間の架け橋。それが交わされるのが対話でありポリフォニーである。ただし、ソシュールも本当は共同体ではなく、社会について語っていたはずである。
第ニ章 話す主体
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ウィトゲンシュタインの懐疑論は、言葉には元々意味がある、ということをそもそも疑う。人間は幼児のように、何かを話すのではなく「ただ」話す。自分ではない本当の聞き手がそこに意味を見出すかはまったく不明。暗黒の中の跳躍。言い換えると、論理学は厳密でなくてはならない、という命題はそもそも倫理的な価値判断が先行しているということ。
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ウィトゲンシュタインの言語ゲーム。ソシュールはゲームのルール(ラング)をあらかじめ共有していることを言語の条件と考える。しかしウィトゲンシュタインにとってゲームは、広場でのボール遊びのように、ルールが絶えず変更されつづけているにもかかわらず、なぜか成立しているようなものとして捉えられる。われわれがゲームが成立していると理解した瞬間で、ルールがでっち上げられる。
デカルトやフッサールは確実性を根拠に数学や論理学を組み立てた。ウィトゲンシュタインは不確実性を根拠にする。
第三章 命がけの飛躍
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言葉が何かを意味していることがなぜ成立するかはついにわからない。けれど、成立したあとに説明することはできる。差異、規則、体系によって。だから言葉や商品を話す、売るということは命がけの飛躍である。そうした飛躍の無根拠性を思い出させるものが《他者》である。
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《他者》は猫に似ている。われわれに時たま関心を寄せるかと思えば、まったく無関心であるかのような猫に。
《他者》は神ではない。私のことをすべて見透かす神は自分自身にすぎない。
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+という記号をプラスとして用いるかクワスとして用いるかは前もって決めることができない。使用した本人でさえも。《他者》がその意味を決定する。
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ウィトゲンシュタインのパラドックス。「規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させうるから」。聖書でパウロが3度知らないといった行為が罪になってしまうのは、行為の前にイエスの予言に対する反論(私は裏切らない宣言)という規則を決めてしまったから。ウィトゲンシュタインからすれば当然の帰結だが、キリスト教は規則と行為のギャップを罪と定義した。
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マルクスの言う交換。異なる生産物が交換(等置)されるのは、同じ本質的な価値(同等の労働)を含んでいるからではなく、交換されたあとに遡及的に価値が想定される。「人間は意識せずともそう行う」。ユングの無意識ともちがうし、ヘーゲルの精神とも違う。
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ウィトゲンシュタイン「哲学探究」。哲学の問題は「わたしは途方に暮れている」という形をとる。哲学は、全てを説明すると思われている規則が正しく作動しない=矛盾してしまう瞬間に光をあて、説明するものである。(新発見や発明ではない)
これはニーチェの系譜学と同じ。凝り固まった規則を、不確定な時代に投げ返す。これは、ヘーゲルやプラトンといった個別の批判にとどまらない問題。西洋形而上学に限らない問題。ニーチェが遠くにかかげたのは、行為そのものが規則になってしまうような行為、すなわち反復あるいは永劫回帰。
第四章 世界の境界
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ウィトゲンシュタイン―クリプキにとって、私的な痛みを他人は理解できないという問題と、数学のような普遍的とされる規則の問題は同じである。椅子があるというふうに、痛みがあるとは示せない。実は数学の対象もまた、痛みのようなものである。
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ウィトゲンシュタインが私的言語はない、というのは、社会的・普遍的な言語がある、という意味ではない。
例えばわたしの言葉の用法が間違っているかどうかは、共同体が間違っていると判断するかどうかによる。だが、共同体は正しい意味を示せるわけではない。だから、客観的な意味は存在しない。言語ゲームとは、共同体の内部でのみ成立する。その外に普遍はない。
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人間と、他者=動物や機械や分裂病者、のあいだに明確な境界線があるかというと、実はない。彼らと話ができないという言説も、話ができると言う言説も、どちらも同じ理由で間違っている。我々は境界線を確定できないから。
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ウィトゲンシュタインは、世界は明確な同一性と差異から成るのではなく、複雑な類似性の網目によって成ると考える。家族的類似性。ゲームは、ボードゲームも球技も手遊びもみんなゲーム。全てに共通する性質はないけれど、それぞれどこか似通っている。
マルクスの価値形態論も同じ考え方。等しくないものを等置することで価値が生まれるが、共通する本質はない。だが、その拡大された価値形態に排他的な中心ができると、それが貨幣になる。
家族的類似性も価値形態論も、隠蔽されているからといって深層にあるわけではない。むしろ、我々のあまりにも眼前にあるために気づかれない(けれどやっている)ことである。
第五章 他者と分裂病
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分裂病患者は、他者とのコミュニケーションが上手く行かないことを恐れている。ブランケンブルグは分裂病患者を聞く立場から考察したが、ベイトソンは隠喩を医師にわからせようとするように、患者を教える立場として考察する。
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バフチンいわく、プラトンは対話篇といいつつ対話ではない。独白である。一方、ドストエフスキーの登場人物たちは独白であるようでいて、本質的に対話的である。なぜなら、話の途中に挟まる言い訳…他者からの批判を先取りして繰り広げられる言い訳に満ちているから。
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ウィトゲンシュタインの言語ゲームは、オースティンの言語行為とは異なる。オースティンは、事実確認的な発語と行為遂行的な発語を区別した。しかし、発語する側にはそのどちらかを選択する権利はなく、決めるのは他者である。そこから言語ゲームは始まる。
第六章 売る立場
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マルクスは資本論で貨幣の神秘性に着目した。それはキルケゴールがヘーゲルのキリスト解釈を批判したのと似ている。キリストは合理的な説明に決して収まらない異質な存在。貨幣もまた、合理的な道具ではなく命がけの飛躍をもたらす。
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マルクスにとって売る立場と買う立場は非対称的である。商品と貨幣は等価値ではない。二十エレのリンネルはそれ自体で価値を決められない相対的価値形態であり、一着の上着は等価形態である。等価形態はあたかもそれ自体に価値があるかのように見え(ここに呪物崇拝の種がある)、どの商品からも等価物として扱われる特権的な一般的価値形態=貨幣へと発展していく。
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マルクスにとっての価値(ウィトゲンシュタインにとっての規則)。商品(ゲーム)に価値(規則)は内在しておらず、交換の後、そのつど事後的に与えられるもの。
古典経済学は、あらゆる共同体を包含した単一の規則に基づく市場経済を想定した。しかし、それは共同体同士のあいだで生じる交換=命がけの飛躍を忘却している。あらゆる交換をコントロールする規則はなく、交換がそのつど規則を変更するのである。
第七章 蓄積と信用
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「資本論」では、産業資本主義の基幹にある商人資本主義が考察されている。すなわち、モノではなく金を増やすことを動機とする商人=重商主義。古典経済学では商品の価値は労働時間ですべて測られたが、それは貨幣との交換によって事後的に与えられた価値の言い換えにすぎない。
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商品と商品は、貨幣を介してでしか交換できない。逆に、貨幣ならどんな商品とも交換できる。これは、売ることと買うことが非対称的な行為だということを示す。そこに貨幣の神秘性がある。
商品の売りと買いは同時に行われるが、本質的には異質な運動である。商品の流通過程が、なぜか資本の運動過程にもなってしまう。
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商人資本のさらに前に、貨幣退蔵がある。金欲を満たすために使用価値を断念する守銭奴がそれである。売る立場は弱いので、常に買う立場に立つためには、実際に買わずに貨幣を蓄積していく必要がある。つまり貨幣の直接交換可能性の「可能性」だけを蓄積する。これは天国に宝を積むために現世で禁欲する宗教信者と同じ構図でもある。
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資本の直接的な動機は蓄積である。技術革新や消費拡大や使用価値ではない。蓄積は流通過程によってのみ実行される。使用価値は流通過程の外側で生じるものである。
資本家は、意志と意識を与えられた資本であり、流通からの蓄積=休みなき利得の運動をもっぱら追求する。
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資本は自己増殖する。その手段が「信用」である。信用によって売り手は決済の時(他者への命がけの飛躍)を先延ばしにすることができる。信用制度は決済を無限に先延ばしするためにさらなる運動を要求する。
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しかし決済の時は突然やってくる。それが恐慌であり、信用の崩壊を意味する。恐慌において、人々が求めるのは直接的交換可能性をもった貨幣であり、商品ではない。
第八章 教えることと語ること
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同じ教えるでも、teachとtellは違う。泳ぎ方を語ることができたとして、それを教えることができるだろうか。あるいは、メタファーに頼るということは、語り得ないということである。教える側は教わる側が試行錯誤して悟るのを待つしかない。
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言語も泳ぎ方も数の概念も、こどもに真似させることから始まる。それは語り得ないので示すしかないものである。はじめから言語や数の概念がある、というのは事後的な説明にすぎない。
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言語や数を、語る-聞くの関係ではなく教える-学ぶ関係から考えるという態度は、ウィトゲンシュタイン以前には存在しなかった。ウィトゲンシュタインは、ゲーデルの問題の脇を通って語るという。これはどういうことなのか?
第九章 家族的類似性
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教える-学ぶというレベルにおいては、言語ゲームの規則を積極的に取り出すことはできない。他人が誤っているということを指摘できるのみである。
他人とのコミュニケーションには、どんなものでも他者性が含まれている。もしふつうに通じているのなら、それは相手が言語ゲームを共有するまでに教える-学ぶ過程が先行しているにすぎない。
ソシュールの失敗は、語る-聞くというレベルで考えたために、すべての言語活動を意味の了解というひとつの体験に還元させたことにある。言語ゲームの多様性は、教える-学ぶのレベルでのみ取り出される。
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ウィトゲンシュタインのいう規則は、囲碁の定石に似ている。ルールではないが、歴史的に形成されてきた強固なパターン。囲碁というゲームは、様々な定石で成り立つ雑色の混ぜ物である。
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言語(あるいはゲーム、あるいは数学)と呼ばれるものに共通なものはない。しかし、それらは異なるにもかかわらずどこか似ている。その似方を家族的類似性とよぶ。それらは繊維のように重なりあい、交差しあって言語という概念の縄を形作っている。縄の強さは、一本の繊維が貫通していることではなく、多様な繊維が重なり合うことから生じている。
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ウィトゲンシュタインが家族的類似性を協調し、マルクスが貨幣形態を強調するのは、どちらも我々のコミュニケーション(交換)の社会性を隠蔽してしまうからである。
第十章 キルケゴールとウィトゲンシュタイン
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『論考』の前期ウィトゲンシュタインはカントに似ているが、『哲学探究』の後期ウィトゲンシュタインはカントを継いだキルケゴールに似ている。キルケゴールのテーマとは、神でも物自体でもない、卑小な他者としてのキリストである。
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キルケゴールにとってのキリストは、完全な神でもなく、単なる人間でもない。どちらとも識別できない他者としてのキリストを訴えた。
弟子たちやパリサイ人は識別できなかった。しかし後世の神学者たちはキリストの神性を証明した。それが間違いであった。彼は教えの直接的伝達をしたのではなく、伝達を可能にする規則そのものを教えようとし、それに失敗していた。福音書はそのような躓きの物語である。
キリストは神性の証明によって人を信仰に導いたのではなく、信仰か躓きかの選択を迫られる分岐点へと導いたのである。証明は人を信じることへと至らせない。
このような他者の導入と言語ゲームの発見こそが、キルケゴールとウィトゲンシュタインとの共通点である。
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キリストの出現は、平行線が無限遠点で交わるという、非ユークリッド幾何学の出現に例えることができる。そこでは平行線なのに交わるという、二項対立が対立していない。キリストも、神であり人であるという矛盾を体現した存在である。
非ユークリッド幾何学を導入したアインシュタイン以後が現実的であるように、キルケゴールにとってキリストは空想ではなく現実だった。ただし普通の歴史上の人物ではなく、歴史を超越した(常に現在形の)存在として。歴史=現実の裏にキリストがあるのではなく、キリストこそがキルケゴールにとっての現実だった。
第十一章 無限としての他者
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ドストエフスキーの登場人物は、自分が恐れていることを他者に知られはしないかと恐れている。恐れとは、言語ゲームを共有しない他者への恐れである。いわゆる対話が不可能な他者に向かって語ることからポリフォニーははじまる。
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ヘーゲルが唱えた単一の精神の弁証法は、キルケゴールのキリスト論によって、マルクスの貨幣論によって、そしてドストエフスキーのポリフォニーによって批判された。いずれも他者の導入によって。
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バフチンは、ドストエフスキーの小説に流れる、急激な転換や変身を含む時間をカーニバル的時間とよぶ。それは非ユークリッド幾何学の時間であり、無限遠点で平行線が交わる世界である。
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「地下室の手記」に見られるように、ドストエフスキーは2+2=4のような普遍数学の世界に反発を覚えていた。だから非ユークリッド幾何学を知ったとき、メタファーとしてであってもそれに宗教的な意義を見出した。同時代の数学者たちもまた、その問題にある種の、原理がひっくり返されるような恐怖を覚えていた。
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ウィトゲンシュタインは、数学に普遍的な原理を見出すこと自体に反対した。数学にはたくさんの公理=体系があり、それらは元々あるものを発見されるのではなく、つど発明されるものである。囲碁の定石のように。
ウィトゲンシュタインは無限の実在を認めてはいない。しかし無限そのものを拒否もしない。無限が実在するかいなか(=キリストのような無限遠点はありえるか)という問題を、他者との一致の問題に移し替えたのである。
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ウィトゲンシュタインの態度はドストエフスキーの態度に似ている。イワンがキリスト教の終末を子供の視点から拒絶するのは、子供が言語ゲームを共有しないからである。つまり、他者の痛みを他人がわかること(救済すること)はできない。それに対しアリョーシャはいう、キリストだけがそれをできると。キリストとは平行線が交わる無限遠点、つまり他者を他者として迎え入れることができるかもしれない唯一の存在である。
第十二章 対話とイロニー
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他者が他者性としてあるような「向かい合わせ」の関係を対関係とよび、共通項を前提とするような「隣り合わせ」の関係を一般的関係とよぼう。
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囲碁の対局者が「五目並べ」を囲碁だと思っていたような場合、対局者は他者性がある。
プラトンにはじまりヘーゲルへつづく弁証法は議論を通して真理へと近づこうとするが、それは他者との対話ではない。囲碁のプロ同士が感想戦で真理への一手を共同で探究するようなものである。逆に、五目並べのように共同体のルールを混乱させる者として、プラトンは詩人を追放せよといった。
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デカルトは私の明証性と神の明証性をたがいの根拠とする循環論法をつくった。しかしこれはプラトン以降の哲学とは異質である。哲学は我から出発し、その我が暗黙のうちに我々(一般者)に含まれると見做す。だがデカルトが懐疑したのは我が我々と等しいということであり、そのために我を証明する神を必要とした。
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ウィトゲンシュタインは、デカルトが自覚したであろう困難に気づいた。だから、数学という客観的な領域さえも、我々が認める原理によるのではない、私的な言語ゲームだと見なした。
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西洋哲学に限らず、仏教哲学も東洋哲学も、対関係としての他者を排除する(内省)からはじまる思考は、自己対話=弁証法であり、モノローグになるほかない。ソクラテスもブッダも孔子も、対関係としての他者を失わないために本を書かなかったのではないか。書くことは、物事の根拠となる弁証法へと人を向かわせる。
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ここで、プラトンが示したような一般的他者に向けた思考を対話とよび、ソクラテスが行ったような対関係の他者への関わりをイロニーとよぼう。
ソクラテスは他者が示す命題をそのままとりあげ、それ自身と反対の命題がそれに含まれることを示してみせた。この仕草は今日では脱構築とよばれている。しかしその呼び名はイロニーという語を避けて新しさを誇示したにすぎない。
形而上学、すなわちプラトン的弁証法がもたらす哲学は、ソクラテスのイロニーから生まれたのみならず、その起源を隠蔽することによって成立した。イロニーは、弁証法が排除した他者性の回復にほかならない。
おわり
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