無限の善、有限の悪

 


The Narrow Road to the Deep North2014)は、オーストラリアの作家リチャード・フラナガンの長編小説だ。邦訳を『奥の細道』という。これを読んで考えたこと。

物語は太平洋戦争を舞台に、オーストラリア兵の軍医ドリゴと、捕虜を監督する日本兵ナカムラを中心に展開する。作者フラナガンの父は、実際に太平洋戦争に参加し、日本軍の捕虜となって強制労働に従事した。小説はその父の体験談を基に書かれている。

ドリゴとナカムラが出会うのは、1942年に日本がタイとビルマ(現在のミャンマー)をつなぐ補給路として計画した泰緬(たいめん)鉄道の建設現場である。

日本はあらゆる物資が不足するなか、連合国軍の捕虜や「ロームシャ」と呼ばれたアジア人たちを動員して、5年かかると言われた工事を13か月で完成させた。捕虜たちは重労働に加えて伝染病や栄養失調に襲われ、13千人の連合国軍兵士がこの工事で死亡したとされる。

元連合国や現地国から「死の鉄路」と呼ばれた泰緬鉄道。密林を突っ切って南のタイから北のビルマへと延びるその道を、作者は松尾芭蕉の著作になぞらえた。

マラリアや汚物にまみれながら、骨と皮だけになって死んでゆく仲間たちを少しでも救おうと、衛生管理や外科手術に挑むドリゴ。対照的に、鉄道の建設を天皇の意志そのものとみなし、自身は覚醒剤に頼りながら捕虜たちを容赦なく労働に向かわせるナカムラ。

この本がまず読者にあたえるのは、生々しい悪の印象だ。

戦後数十年がたって、年老いたナカムラが当時を回顧するシーンがある。「建設用の重機がないので、精神が肉体と共に起こせる奇跡に頼った。天皇陛下のために鉄道を建設しなければならず、鉄道はそれ以外の方法で建設できなかったから、自分の力で人が死ぬのを止めることはできなかった」。

戦後のナカムラは癌に侵されていた。ふと頭をよぎる考えがあった。「人間の命など一つとしてこの普遍的な善には値しない()こういったことがなにもかも甚だしくおぞましい悪のための仮面だったのだとしたら?」

しかしナカムラはすぐにその考えを退け、やがて老いとともに自分が戦争に参加していたことすら忘れてしまった。

戦争が生み出したの思想は失われることなく、敗戦がナカムラに命の重さを思い出させることもなかった。ナカムラは死ぬまで悪人だった。

しかし、読者にとって興味深いことに、収容所に入れられていたドリゴにもまた、その思想をわかってしまう瞬間があった。

労働を不当に休んだ者たちへの見せしめとして、衰弱していた一人のオーストラリア兵に暴行を続けるナカムラ。その姿を見たドリゴは、仲間を助けられない絶望以上に、ナカムラを動かす「掟への気高き服従」に感心してしまう。「ドリゴは()それに対抗し得る生命の躍動を自分のなかに見つけられなかった」。

ナカムラの悪に対して、ドリゴに善があった訳ではなかった。終戦後、祖国では多くの仲間を救った英雄としてもてはやされるが、ますますドリゴは自分の中に善を見つけられなかった。あったのは、困難な日々をドン・キホーテのごとく「風車に突撃する」ように生き抜いたという実感だけである。その実感だけが戦後のドリゴの空虚な日々を支えていた。

ここには一つの歪みがある。有名なあのドン・キホーテは風車を巨人だと信じていた。たしかにナカムラが体現していた悪は、ドリゴの前に巨人のように立ちはだかっていた。しかしドリゴは、その悪は巨人などではなく風車なのだと、気高い仮面の下はスカスカの虚無しかないのだと、わかっていたに違いない。にもかかわらず、ドリゴにとってはその風車に挑む日々こそが、(絶望に包まれていたとはいえ)人生のハイライトだった。

***

「無限の善」を想定してはいけない。そのための「あらゆる有限の悪」が許容されてしまうから……とは、小川哲の小説『ゲームの王国』の一節である。

『奥の細道』に当てはめれば、天皇という無限の善のために、どんなに人が死んだとしても仕方がないというナカムラそして日本軍の思想そのものである。彼らは死に無感覚だったわけではない。けれども捕虜たちの死は運命だったから、自分にはどうすることもできない。

「無限の善」と、コインの裏返しとしての「あらゆる有限の悪」。単純な善悪に回収できないこうした感覚は、20世紀前半の日本にだけ生じた特異な思想ではない。人間はおそらく誰でもわかってしまう。だからドリゴは命を奪われる側にもかかわらず、ナカムラの姿に感心してしまった。

では、善のための悪という逆説を支えるものは一体何なのか。

戦時中に日本軍によって行われた中国での人体実験には、麻酔なしの生体解剖も含まれていた。

実験に参加した軍医たちは、多くが戦後も裁かれることなく生き延び、中にはひとかどの人物になった者もいた。彼らは戦後しばらくして集められた証言のなかで、はっきりと加害の意識がないと語った。

自分が積極的にやりたいわけではないが、かといって強制されたわけでもなく、なんとなく犯してしまう悪。この現象を、東浩紀は論文『悪の愚かさについて』のなかで、「中動態的な悪」と言い換えた。

中動態とは、文法上の能動態と受動態、そのどちらにも当てはまらない3つ目の区分である。古代ギリシャ語には確かにその言葉があった。

現代でいえば、カツアゲされた人がお金を出してしまうという行為や、アルコール依存症の人がわかっていながらつい飲み続けてしまうという例がある。自分からお金を出したわけでもないが、強制的に財布を奪われたわけでもない。そういう行為は確かに存在する。しかし、現在の日本語にはそうした行為の中動態をあらわす言葉が存在しない。

戦争とは、従事した多くの人間にとって中動態的な出来事だった。そして、中動態的な行為は個人以上に集団と相性がよい。銃で人間を撃ったり、捕虜を労働させたり、殴りつけることはもちろん一人一人の人間が行うことである。しかしそれを実行させるのは、たとえば天皇という善のもとに多くの人が服従し、「群れ」となったときである。東は同じ論文でこう書いている。

「個人はたしかに賢くなる。けれども群れは賢くならない。なぜならば群れはつねに若返り続けるからである。新しく愚かな個体が補充され続けるからである。それは希望であるとともに人間の限界である。……だからぼくは、ひとを賢くする言説は、つねにひとの愚かさを伝える言説によって補完され続けなければならないと考える」。

東の「中動態的な悪」は、『奥の細道』でいう「風車」であり、『ゲームの王国』の「あらゆる有限の悪」だ。善のための悪という逆説は、中動態的な感覚に支配された集団が支えている。

それは戦時中の日本に限らず、東の言うように人間が抱えた普遍的なエラーのようなものなのかもしれない。天皇でなくとも、たとえば神とか、革命とか、今期目標の達成とか、理想の家族だとかのために人は悪を犯す。だからドリゴは殺される側にもかかわらず殺す側の論理がわかってしまうし、『奥の細道』を「現代のサラリーマン小説」として読んだという読書会仲間の感想もきっと同じ理由なのだ。

もちろん、善を追い求めること自体を否定することはできない。それなしに社会を成り立たせる法律も政治も生まれないだろう。けれども、私たちは悪の愚かさ、すなわち無限の善の誘惑から自由ではない。その矛盾への自覚が「有限の善」への出発点、なんだろうか。

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