『心を病んだらいけないの?』を読んだ


精神科医の斎藤環と、歴史学者の與那覇潤の対談本『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』を読んだ。

著者たちは、「夢を諦めたら負け組なのか?」「その人の価値=コミュ力なのか?」といった話題を通して、現代の生きづらさの核にあるものを明らかにしようとする。どのテーマでも、與那覇が経験した双極性障害(躁うつ病)をはじめとする精神疾患がトークの起点になるが、人生に困難を感じるあらゆる人が自分ごとのように読めるだろう。また一方では、個人の生き方を深く規定してきた、平成以降の新自由主義経済やSNSによる世論形成といった社会の状況をも論じている。

特に面白かったところをかいつまんで紹介しよう。

 

1. 精神分析はナラティブに基づいた医療

斎藤は「精神科医」であると同時に、精神分析という学問の領域を専門とする「精神分析家」でもある。思想や批評の文脈では精神分析家の顔がより知られている。

精神医学と精神分析は名前がよく似ているが、大きな違いがあるという。前者は症状から統合失調症とかうつ病といった病名を診断するが、後者はそうした体系的な区分を持たないため、病名を診断することができない。

精神分析は診断をしない代わりに、心の状態を解釈するためのツールを提供する。例えば子どもと親の関係のねじれをエディプス・コンプレックスに基づいて解釈するように。

精神医学と精神分析のちがいを別の表現で言い換えると、「科学的根拠に基づく(Evidence-Based)医療」と「物語に基づく(Narrative-Based)医療」に分かれる。患者が妄想に囚われているのなら、精神分析家は「こうした物語なのではないですか」という仮説を提示することができる。

與那覇はこうした精神分析の手法を、演繹法に対するアブダクション(類推)的手法だと表現した。前提から導き出される必然的な答えではなく、仮説をもとにした暫定的な答えを出すやり方である。

これは感想だが、一連の説明を「アカデミックな文学研究とジャーナリスティックな文芸批評のちがい」として読むこともできるだろう。文学テキストに忠実な文学研究と、あえて書かれていないこと(仮説)を踏み台に新しい解釈を提示する文芸批評。大学生のときはどちらも同じ文学の研究だと思って、違いがいまいち分からなかったが、今はなんとなくわかる。 

 

2. 万能感からあきらめによる成熟へ

私たちは小学生のころからずっと、「あなたは何にでもなれる」「夢をあきらめるな」というメッセージに囲まれている。教育現場はもちろん、漫画も映画も歌も同様である。それによって「自分はこれから何にでもなれるんだ」という万能感が育まれる。

ところが、精神分析が説明する人間の成長過程では、こうした万能感はどこかでへし折られなければいけない。「自分はどうやらこの程度の人間らしいな」というあきらめ(精神分析の言葉では「去勢」)を経て、「でもそれでもいいんだ」という成熟に達することができる。これが大人の仲間入りの条件なのである。

著者のふたりは、現代の日本が「何歳になっても夢を追い続けなければいけない社会」になっているという。これは肌感覚でよくわかる。私自身、小さいころから万能感だけが取り柄だったような人間である。中学生のときは他人の卒業アルバムに「世界を変える男」とか書いていた。そして今でも「何歳になっても夢を追い続けなきゃな」と思って本を読み、ブログを書いている。それのどこがダメなんだ、とさえ思ってしまう。

斎藤もまた、「『できないことを受け入れないと、先に進めない』ということなんだけど、うまく一言で言い表せない」と述べているとおり、「あきらめによる成熟」を理解するのは簡単ではない。おそらく、単に「分をわきまえろ」という抑圧的な態度ではないのだろう。理想を追いかけているようで逆に追い立てられる、そのようなプレッシャーから解放されて、目のまえのできることに向き合う、というようなことなのかもしれない。 

ではどのようにして人は成熟へ向かうことができるか、という問いに、本書はいくつかのヒントを出している。

たとえば他人と直接会ったり、普段いかない場所へ出向くことが一つの方法だ。ツイッターを見ればわかるように、ネット上だけで話したり、議論だけしていては、ただ自分自身の考が強化されていくだけである。決して「去勢」されることはない。

いざ直接人に会えば、何より物理的に疲れる。もし異なる考えを持っていても、身体の疲れが両者をあきらめさせ、折り合いをつけさせるのだ。万能感とは無限に続く能力や時間を前提にしているが、自分は有限の存在なのだと思い知ることで人は「去勢」される。

人が一生に読める本の数も、言葉を交わせる人の数も限られている、という事実は、実際に本を読んだり人と会ったりしなければ感得できない。私はつい本屋に行っても背表紙を眺めて満足したり、人と会うことを面倒くさがる人間だが、それは自分の万能感を守ろうとしていたのかもしれない。


3. ハーモニーでなくポリフォニーを

與那覇は、精神療法で得たあたらしい知見として、「同意ではなく共感を」というキーワードを挙げている。

たとえば「死にたい」と言っている人がいたとして、その主張に同意するわけにはいかない。本当に自殺に向かってしまうかもしれないからだ。けれど、「死にたいなんて考えちゃダメだ」という否定的な応答もまた、当人を追いつめ、自殺へと向かわせてしまう恐れがある。

このとき、相談された側(精神科医)は、同意も否定もできないが、死ぬほどの苦しみに共感することはできる。「あなたが苦しいのはよくわかる」「私もあなたの立場だったらきっと同じように苦しいだろう」、という共感を伝えることで、初めて患者に寄り添うことができる。「同意ではなく共感を」は、カウンセリングの基本的な姿勢だ。

斎藤はこれを踏まえて、オープンダイアローグという実践を紹介した。患者と医師が一対一で向かい合う従来の治療とは異なり、オープンダイアローグでは複数の医師、心理士や看護師、(患者の許可が出れば)家族や友人を招いて、複数人で対話を行う。

この手法は、全ての参加者が対等であることに特徴がある。医師が一方的に診断し、治療の計画を立てたりしない。知識をもとにアドバイスは行うが、あくまで患者の考えを関係者で共有することが優先される。たとえば「盗聴されている」という妄想を持っている患者であれば、「そんなことはない」と否定せず、「いつごろからスパイの存在に気づいたんですか?」と話を促していく。まさに「同意ではなく共感を」である。

斎藤がオープンダイアローグで目指すのは、患者が主体性を回復することだ。スパイ妄想の例なら、患者が複数の人にわかるように妄想を説明するうちに、「何だかわからなくなってきた、考えすぎだったんですかね」と冷静になることがある。一対一の治療では妄想にツッコミを入れたくなってしまうが、オープンダイアローグなら論争的な雰囲気になりにくく、患者の話を聞こうという姿勢が保たれやすい。

関係者は患者の話を聞き、患者は関係者にわかるように話す、ということを通して、相互に理解が深まっていく。時には、医療関係者が症状について意見を交換するのを、患者や家族が観察する、という場面もあるという。こうした経験は患者にとって、「他者の他者性」を知ること、そして自分にもまた尊重されるべき主体性があることを思い出させる契機になる。

他者の他者性を尊重する。言い換えると、複数の人間が集まったとき、調和(ハーモニー)を重視するのではなく、多声性(ポリフォニー)を選ぶ。ポリフォニーとは、「ひとつの考えが優位的になることなく、他の立場と併存して相対化しあっている」状態を指す。バフチンというロシアの批評家がドストエフスキーの小説を論じた際に持ち上げた言葉のようだ。

ふだん合唱団で活動している人間として、興味ぶかい箇所だった。合唱はまずハーモニーありきの音楽である。それが成功したときの快感もわかる。だが、人間は必ずしもハーモニーを目指すべきか、というとそうではないのかもしれない。ハーモニーとは、場合によっては「出る杭は打たれる」という意味もはらんでしまう、両義的な概念だ。その複雑さまで引き受けた音楽というのも面白いかもしれない。


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