初音ミクの四象限

このあいだiPodを聴いていたら、初音ミクの曲が入っていたので久々に再生してみた。Supercellというグループの「メルト」とかが入っているアルバムである。

すると、かつてニコニコ動画で熱心にVOCALOIDの音楽を漁っていたころの感覚というか、何かがファーッと頭をかすめていった。いま聴けば実に平板な歌声なのだけれど、そのキャラクターを中心にした流行になぜか強く惹きつけられていた。あれはいったい何だったのだろうか?

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戦後の大衆音楽を分類した宮台真司『サブカルチャー神話解体』にならい、初音ミクの楽曲を東西&南北方向の2つの軸に沿って、4つの象限に分けてみよう。

東西方向の軸は「西:器楽/東:声楽」。南北方向の軸は「北:忠実/独立」である。

 

 

まず「器楽/声楽」の軸は、どのくらい人間らしく歌うか、の物差しだ。初音ミクは抑揚やブレスをうまく入力すれば、比較的人間に近い歌唱をさせることができる。これを声楽的な方向とすると、対極には、あえて人間らしさをもたせず、機械の声であることを強調する楽曲もある。これが器楽的な方向である。

つぎに「忠実/独立」は、緑の長い髪をツインテールに結んだ16歳の少女という初音ミクのキャラ設定をどのくらい活かすか、という指標である。アイドルソングを思わせるような、少女設定に忠実な内容の楽曲もあれば、ほとんどキャラとの関係を感じさせない独立したものもある。

以上の2軸に沿って、4つの象限を定めてみよう。さきに名前をつけてしまうと、左上から時計回りに、①自己言及系、②青春系、③成熟系、④超絶技巧系、となる。順番に見ていこう。

まず①の自己言及系は、「器楽的で設定に忠実」な楽曲である。これは主に初音ミクが発売された最初期(2007年)に制作された一群の作品を指す。「みっくみくにしてあげる」とか、「ハジメテノオト」といったタイトルからわかるように、「私はあなたのPCのなかで精いっぱい歌っていますよ~」という明確なシチュエーションおよびメッセージが込められている。おそらくはそこにAIを念頭においた「SF・先進的」なニュアンスも読み取られていただろう。

つづいて②の青春系は、「声楽的で設定に忠実」なものを指す。なぜ青春なのかというと、16歳の少女という設定から、恋愛や複雑な人間関係への悩み、孤独といったモチーフが頻繁にとりあげられるからだ。ニコニコ動画の中心的なリスナーだった10代に最もヒットするテーマでもある。例としては「メルト」「恋は戦争」といったsupercellの人気曲が挙げられる。これらの曲では息継ぎやシャウトが多用され、声楽的な(リアルな)演奏が求められる。この段階にきて、単発の実験的なソフトで終わらない、魅力的なキャラおよび聴くに耐えうるボーカルとしての初音ミクが発見されたとも言える。

③の成熟系は「声楽的で設定から独立している」楽曲である。成熟という言葉がふさわしいかは微妙だが、たとえばストーリー仕立てであったり独自の世界観で作られていたりと、初音ミクの設定あるいは青春や恋愛にとらわれないテーマを扱うものを指す。例えば「サイハテ」や「*ハロー、プラネット。」といった曲がそれにあたる。個人的にいちばんよく聞いていたのが米津玄師ことハチの楽曲であったが、それらもこの領域に当てはまると思われる。そして後に自身の歌唱によってメジャーデビューした彼の例からわかるように、楽曲の性質が最も初音ミクから遠ざかり、人間に近づいたのもこの段階であった。

最後に④の超絶技巧系は、「器楽的で設定から独立している」ものである。作曲家たちは人間に近づいた成熟系からふたたび離れて、きわめて早口であったり、超高音の歌唱といった、人間が歌うには難易度が高い楽曲のボーカルとして、初音ミクを召喚する。例としては「裏表ラバーズ」や「初音ミクの消失」、それに(初音ミクではなく鏡音リンだが)「炉心融解」など。非人間的な歌唱こそが必要とされる領域だ。

という感じで初音ミクの四象限をなぞってきたが、ここでいくつかの留意点がある。

まず、4つの領域は①→②→③→④→①…という歴史をもっている。象徴的なのは④超絶技巧系に属する「初音ミクの消失」だ。人間にはまねが難しい超絶早口の(、だからこそ歌ってみたの挑戦が後を絶たない)代表例だが、これは「初音ミクがパソコンからアンインストールされる直前に歌う曲」というテーマであることから、①の自己言及系の要素もきわめて強い。初音ミクの歴史は、人間の赤ん坊が自らを認識するかのように自己言及期に始まり、青春期、成熟期、超絶技巧期を経て、ふたたび自己言及期に帰っていく…。

などいいたいところだが、これは正しくない。「消失」は初音ミク発売翌年の2008年の曲であり、にもかかわらず以降もすべての象限で楽曲が作られ続けている。「消失」はひとつの到達点ではあるが、決して終点ではない。ここで述べた4つの象限そして歴史は、あくまでイマジナリーな歴史であることを忘れてはいけない。

また、「消失」の例からもわかるように、初音ミクの楽曲は星の数ほどあれど、4つの象限のうち1つのみに属するものは少ない。複数にまたがっているものがほとんどである。例えば②青春系の「メルト」も、歌詞に初音ミク自身は登場しないが、動画で使用されているイラストは、初音ミクがリリースしたらしきCDアルバムを模している。このように、ニコニコ動画が音楽配信ではなく動画配信サービスであることから、動画には歌手あるいは歌詞の主人公のビジュアルがほぼ確実に登場する。そしてその姿はやはり初音ミクか、それを思わせるツインテールの少女であることが多い。こうした意味でも、初音ミクの設定に忠実/独立といった軸は便宜上の区分である。動画の観点からすれば、ほとんどの作品が初音ミクの設定から無関係ではいられない。

そして最後に、今回の文章は20092011年というきわめて限られた期間の、さらに一部の楽曲ばかり聴いていた人間が記憶だけに頼って書いたものなので、大きく偏っているはずである。これに類する、そしてもっと網羅的な作業は誰かがやっているはず。

とはいえ、今回の作業で改めて考えることができた。「なぜ初音ミクは人間よりも平板な歌声なのに魅力的なのか」という問いである。初音ミクの楽曲は有名であればあるほど、歌い手たちによる大量の「歌ってみた」を誘発する。それら二次創作と比べて、オリジナルである初音ミクの歌声はたとえどんなに声楽的な工夫がこらされていようと、やはりぎこちない。にもかかわらず、こうして10年後に耳にしてもなお頭にガーンとくる。なぜか。

一つ前の記事で書いたデリダ=東の話を思い起こすに、初音ミクの声はひとつのエクリチュールなのだと思う。あるいはひとつのブランドなのだ。

エクリチュールは複数のコンテクストに同時に所属することができる。初音ミクもまた、自己言及系や青春系といった異なる領域に同時にまたがることができる。いわばなんでも中身を入れ替えられる器のようなものだ。

そしてそれは中身がどんなに変わっても同じ器である。人間の歌手であれば、桑田佳祐でも宇多田ヒカルでも、ある領域の歌に向いた声なのだと聴衆に認識される。だから宇多田ヒカルに演歌を頼まない。器にあった中身を注がれる。だが初音ミクの声は、あらゆる歌を歌うがゆえに、どんなイメージにも染まらない唯一性を帯びることになった。初音ミクとは無数の楽曲を聴いた聴衆のなかにぼんやりと形作られる印象そのもので、それこそがオリジナルな魅力だった。だから久しぶりに「メルト」を聴いたとき、楽曲の記憶ではなくて、「初音ミク」の存在感が蘇ってきたのだ。とりあえず、そう思うことにする。

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