歴史はひとつなのか?:存在論的、郵便的のまとめ
東浩紀の『存在論的、郵便的』は、ジャック・デリダというフランスの思想家について解説した本だ。読んでみたらとても難しかったが、全4章のうち第1章については、「可能世界」といった文学的な親しみやすいモチーフで語られていたので、理解したところだけ以下まとめてみたい。
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第1章のテーマは歴史の唯一性だ(本全体のテーマは別にある)。ふつうに考えて、過去から現在までの歴史はこの現実ひとつしかない。では、私たちはなぜ「歴史はひとつである」と言えるのか。
デリダは答えを明言していないが、デリダから解釈した東によれば、それは「歴史はひとつではないからひとつだとわかる」、ということになる。どういうことなのか、順を追って考えてみよう。
ちなみに、ここから先の議論では、A/Bというセットになったキーワードがさまざまに姿を変えて登場する。『NARUTO』で言えば主人公のナルト/サスケに始まり、一世代上のカカシ/オビト、さらに上の世代の自来也/大蛇丸……といった風に、因縁のライバル関係が幾世代にもわたって受け継がれるようなものとして考えるといいかもしれない。
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さて、最初のキーワードは「パロール/エクリチュール」の2つだ。パロールは話し言葉、エクリチュールは書き言葉を意味する。
たとえば「he war」というアルファベットの一文があるとしよう。これは英語にもドイツ語にも読める。正確には、パロールとして発音すれば何語か確定するが、エクリチュールつまり文字のままではどちらの言語かを確定できない。もし日本語に翻訳しようとしたら、英語の意味かドイツ語の意味か、どちらかを選ばなければいけない。「ふたつの言語に二重に所属している」という状態そのものは日本語に翻訳できない。
この場合、パロールとしての多様性は翻訳可能だが、エクリチュールとしての多様性は翻訳不可能だ、ということになる。デリダは、前者のパロールとしての多様性を「多義性」、後者のエクリチュールとしての多様性を「散種」と名付けた。多義性/散種。これが2つ目のセットになったキーワードである。
ここで覚えておくべきポイントは、「散種の効果はつねに事後的に発見される」ことである。「he war」の例で言うと、私たちが散種の効果、すなわちエクリチュールの多様性を知ることができるのは、「ひとつ」の書き文字に対して、英語、ドイツ語という「ふたつ」のパロールが発音された後である。逆に言うと、エクリチュールが複数のコンテクスト(文脈。この場合は言語)を移動する前には、散種の効果は存在しない。だから、デリダは散種が存在する時間を「決して現前することのない過去」と表現している。
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3つ目のキーワードは、「同一的/同じ」だ。ふつうは単なる類義語として扱われる組合せだが、デリダはちょっとひねりを加えて使い分けている。
たとえば、領収書や契約書にするサイン(署名)のことを考えてみよう。ふつう、どんな異なる書類にも、田中太郎さんであれば毎回同じ「田中太郎」というサインを書く。しかし、書類同士を比べてみれば、当たり前だが少しずつ文字の書きぶりは違うはずである。このとき、サインは「同じであるが同一ではない」ということになる。つまり、田中太郎というサインには、同じ人が書いたものであるという「同じもの性」と、毎回少しずつ異なるという書類ごとの「同一性」(唯一性と言ってもよい)の、似て非なる性質がある。
なぜこんなことになるか。それはもちろん、サインが書き文字=エクリチュールであるからだ。「he war」の例でみたように、エクリチュールはひとつのコンテクストに囚われない性質がある。ここでのポイントは、「同じものの反復が、コンテクストの複数性を生み出す」ということである。同じサインだからこそ、特定の書類に対する唯一のサインとして通用するのである。
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今度は少し観点を変えて、固有名について考えてみよう。たとえば昔のギリシャにアリストテレスという哲学者がいた。彼はプラトンの弟子であり、アレクサンダー大王の家庭教師であった。このような、アリストテレスという固有名に付随する性質を特殊性と呼ぶ。
ところが、誰かが「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」と言い始めたとしよう。これは架空の想定だが、文章自体に矛盾はない。であれば、「アレクサンダー大王を教えた」という特殊性がたとえ誤りだったとしても、アリストテレスという固有名は成り立つことになる。このような、特殊性に収まらない固有名のブランド性を単独性と呼ぶ。ブランド性とは、どんなに派手でもどんなに地味でも服の内容に関わらず「ルイ・ヴィトン」を名乗ることができる、そのような名前が持つ力のことだ。これが、4つ目のキーワード「特殊性/単独性」である。
ちなみに、特殊性/単独性は、デリダではなく柄谷行人という別の思想家の言葉である。東は柄谷のキーワードを補助線として、デリダの思想を新たに解釈しようとしている。
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アリストテレスという固有名には、「アレクサンダー大王を教えた男」という特殊性が付随する一方で、そうした特殊性に回収されない「アリストテレス」という名前そのものの単独性も存在している。
重要なのは、名前の単独性は最初から存在しているわけではない、ということである。ここまでの議論を思い出そう。「he war」というエクリチュールの効果は、複数の言語で発音された後初めて発見されるのだった。サインは、複数の書類に使われて初めて署名として成立していた。
であるならば、「もしかしたらアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」とか、「師匠はプラトンじゃなかったかもしれない」という複数のコンテクスト、いわば「可能世界」を想像することによってはじめて、アリストテレスという名前は単独性を獲得することができる、ということになる。
繰り返しになるが、事実アリストテレスはプラトンの弟子であったし、アレクサンダー大王を教えていた。だから、固有名を特殊性の集まりとして置き換えたとしてもまったく正しい。だが、もし単独性も現実世界において認めるというならば、それは現実世界がすでに可能世界を前提として認識されていることを示している。デリダが散種の時間を指して言った「決して現前したことのない過去」とは、可能世界のことだったのだ。
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可能世界による単独性の認識を、もう少し身近な例で考えてみよう。東日本大震災は、2011年3月11日に起こった。当時誰もが経験したことのない、そして以降も現在のところ類することのない規模で発生した、一回きりの出来事である。
私たちがその事実を最も思い出すのはいつだろうか。毎年訪れる3月11日である。日付の反復は、震災が起こる直前の時間への回帰、つまり「震災が起こらなかったかもしれない」という想像を否応なしにかき立てる。出来事が起こらなかった可能世界を想像することで、3.11という出来事の単独性がたしかなものとなるのだ。
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改めて、冒頭で示した第1章のテーマは「私たちは『歴史はひとつである』となぜ言えるのか」ということだった。それに対するデリダ=東の回答は、「現実とは異なる歴史を想像することで、逆説的に唯一の歴史を認識できる」、である。複数のコンテクストを移動して初めて、ひとつのエクリチュールを発見できる。歴史はひとつではないから、ひとつだとわかる。
以上、第1章の内容を「歴史の唯一性」に絞って整理してみた。この問題は、東の後の著作、可能世界をテーマにしたSF小説『クォンタム・ファミリーズ』や、最近の論文「悪の愚かさについて」でも繰り返し取り上げられている。『存在論的、郵便的』はデリダについて語った本だが、デリダを通して東の思想がはじめて語られた本でもあった。
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