エヴァ旧劇場版の希望的観測

 


 エヴァンゲリオンの「旧劇場版」をネットフリックスで見た。

 いま映画館でやっている最新の劇場版を見る前に、見ておこうと思ったのである。見た直後は、うわさどおり「わけわからん」というか呆然としてしまった。特に、登場人物のほとんどが死を迎えたあと、シンジとアスカの二人だけが生き残るエンディングには、アスカの「気持ち悪い」という捨て台詞も相まって、すさまじい後味の悪さを感じた。

 ところが、次の日の夜くらいから、段々と新しい感想が湧き出てきた。具体的には、次に見たテレビ総集編(旧劇場版の前に公開された映画)のエンドロールで、パッヘルベルのカノンが流れはじめたあたりから、である。

 カノンは単なるBGMではなく、アニメの一場面として演奏されている。弦楽四重奏を演奏するのはエヴァンゲリオンのパイロットであった子どもたち4人だ。シンジは一番低いチェロのパートを弾いている。ヴィオラのアスカが「あんたは和音のアルペジオを弾くだけだからいいわよね」と言うとおり、シンジはある一定の和音を弾き続ける。あとで知ったことだがカノン進行といって、ある和音の運びが中島みゆきの「糸」や井上陽水の「少年時代」といった名曲のサビに共通して使われているらしい。

 それはともかく、自身に割り当てられたパートをひたすら弾き続けるシンジの姿を想像したとき、旧劇場版の印象が大きく変わった。というか、鑑賞当初とは異なるものを読み取れるのではないかと思った。シンジは世界を救えなかったが、何もかもに失敗(バッドエンド)したのではなく、無数の欠陥を抱えた自分のまま生きていくことにだけは成功したんじゃないか?

 旧劇場版のクライマックスでは、登場人物たちを含めた人類がすべて、自身の欲望が実現するという恍惚のうちに液状化し、ひとつの生命体に統合されてしまう(理屈はよくわからないがそういうものとして扱う)。破滅のトリガーとなってしまったシンジは、内なる母の声に選択をせまられる。「人類がひとつとなって完璧な調和を実現するか、従来通り個別の存在として生きていくか」。

 シンジは、他人にどうしても心を開けない少年だった。父親からの冷遇に加え、自分はエヴァの操縦士という役割なしでは決して他人から承認されないのだ、というアイデンティティの危機を常に抱えていた。だから母からの問いかけは、それまでのシンジからすれば迷う余地のない選択であった。人類がひとつにさえなってしまえば他人がいなくなるのだから、これ以上辛い思いをしなくて済むのだ。いなくなった母と冷たい父ともひとつになり、永遠の充足を得ることができる。

 しかしシンジはなぜか後者を選んだ。他人がいるかぎり、衝突や理不尽な扱いは決して避けて通れない、だが「それでもいい」と言ったのである。その結果、気づくとシンジはアスカとふたりで、世界が滅びたあとの地球に横たわっていた。

シンジは、かつて他人を拒絶し続けたことを反復するかのように、再びアスカの首を絞めようとする。だがもう、息の根を止めるほどに力を込めることはできない。その様子を見てアスカは「気持ち悪い」と吐き捨てる。明らかに二人は絶望と幻滅の極致にいる(ついでに観客もすこぶる絶望的な気分である)。それでも溶けてひとつになったりせず、二人の人間のまま生き残っている。何もかもうまくいかなかったにもかかわらず、生き続けている。これは何かすごいことなのではないか?

最近読んだ本で思いあたる一節があった。斎藤環の『生き延びるためのラカン』である。ちょっと回り道になるけど、どんなことが書いてあったかを簡単に紹介したい。

 ラカンは精神分析の人だ。師匠のフロイトから思想を受け継ぎ、人間のこころには無意識という直接認知できない領域があることを理論づけた。面白いのは、ラカン曰く「こころ」は非合理的で、人間がぜんぜんコントロールできないということである。

人間のこころは視覚的イメージの「想像界」、言葉で出来ている無意識の「象徴界」、前者二つのさらに外側にある「現実界」という三つの相が組み合わさって出来ている。斎藤はCG映画に例えて、スクリーンに映る映像が想像界、映像を生み出すプログラムが象徴界、さらにそれらを実現するコンピュータなどのハードウェアが現実界だ、と説明している。人間は映画を観るときと同様に、目に見える想像界までしか直接認識することができない。

ところが、この三界のいたるところに落とし穴がある。たとえば人間は想像界=目撃したことや映像にだまされやすく、フェイクであっても真実だと思い込んでしまう。これは、赤ちゃんが最初に自分という存在を認識するのが、鏡に映った自身の視覚的イメージであることに起因する。鏡の像は左右反転しているから自分そのものとは異なるにもかかわらず、赤ちゃんはこれが自分だと合点する。人間は自分自身を最初から誤解しているのだ。だから目に映るものを真実だと信じてしまう。

あるいは、象徴界はどうだろうか。人間は現実をそのまま認識することができないから、言葉を導入する。これも赤ちゃん時代のことだが、ママが自分のそばにいないとき、ヒトは「ママ」という言葉を獲得することで、ママの存在の欠落を埋めるという。つまり、言葉は存在の代理物となる。これだけでなく、あらゆる出来事を理解し、関係していくために人間は全てを言語化する。逆に言えば言葉を獲得する=象徴界を手に入れることで赤ちゃんは人間になる。代わりに、人間はママそのもの存在そのもの)には触れることができなくなってしまう。

このようにラカンは、こころにだまされたり、コントロールできないのが人間だ、という論理を詳細に組み立てていく。脳や神経はシステマティックな物体にも関わらず、こころはコンピュータのように合理的では決してないのだ。

斎藤は本の最後に、「こころと情報は対立する」ということを主張している。人間のこころは、情報を伝え合うには大変効率が悪い。しかし、それには良い面もあるという。自分がエヴァ旧劇場版を思い出したのは、次の一節である。

もし非階層的で不合理な動きを持つ「こころ」がなかったら、僕らの脳と脳は互いに理解しすぎてしまうだろう。それはきっと、脳と脳とが融合してしまうくらい、深い理解となるだろう。……

でも、考えてみてほしい。いったい誰が、そんな世界を望むのか? 僕たちは「人類」などとまとめて呼ばれる前に、自分自身の、世界でたった一つの名前で呼ばれることを、まず望むんじゃなかったのか?……

 確かに僕らはこころのせいで、愚かしい欲望を抱き、不合理な衝動に身をゆだね、ばかげた関係性に身を投じる。……しかし、その愚かしさゆえにこそ、僕らは転移しあい、関係しあい、つまり愛しあうことができるのかもしれない。

旧劇場版のシンジは、自身の愚かしさ(ラカンによればそれ〈=こころ〉こそが人間の条件である)が招いた人類の絶滅という結末を経て、なおも生きる。アスカと、愚かしさゆえの新たな関係を結び始める、かもしれない。

明日はシン・エヴァンゲリオン劇場版を見に行く。

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