ニーチェ『権力への意志』を読み終えた
ニーチェ『権力への意志』を読み終えた。あらためて、自分なりの理解をまとめてみる。
この本の最初にして最大のキーワードはニヒリズムだ。本のねらいを宣言した「序言」を見てみよう。このような予言から始まる。
「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来たるべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書き記す。」
やがて世界に到来するニヒリズムとは何か。それは「すべてのものはいかなる意味をももたない」という立場である。辞書によれば虚無主義ともいう。
なぜ世界がニヒリズムにおちいってしまうのか。それは、キリスト教的道徳が世界に広まることで、必然的に引き起こされる事態なのだ。どういうことだろうか。
キリスト教はヨーロッパ世界の秩序を確立した。しかし、ニーチェからすればその秩序は欺瞞に満ちていた。キリスト教はたとえば天国での救済を約束するが、現実の苦難は救ってくれない(これは『カラマーゾフの兄弟』でも提起される問題だ)。聖書の教えは、宗教の無力を覆い隠して僧侶たちが権力を得るためのしかけにすぎない。
仮にキリスト教が人間の誠実さを育むのであれば、人々は誠実さによってこうした欺瞞にかならず気づく。だから、キリスト教的道徳はそれ自身の力によって没落せざるを得ない。このように、ニヒリズムの到来は歴史の必然的な帰結といえるのだ。
もちろん、ニーチェは近い将来の予測のみを記したわけではない。「序言」はこう結ばれている。「私たちは、いつの日にか、新しい諸価値を必要とする」。
諸価値とは、旧来「価値あるもの」とされてきたキリスト教や道徳である。それらを徹底的に考えぬく(=疑い、ニヒリズムの段階を経る)と、「権力への意志」という原理が見えてくる。権力への意志を理解することで、旧来の価値とは異なる「新しい価値」を定義することができる。そうした宣言が行われているのである。
では、ニヒリズムの先にある権力への意志、そして新しい価値とは何なのか。
これまでの議論でも権力という言葉が出てきた。キリスト教とは、僧侶たちが権力を得るための方便に過ぎない。ニーチェによれば、宗教は権力への意志のひとつの表れである。
それだけではない。人間が理想、あるいは真理を求めるということ(これを形而上学という)が、「すなわち、人間保存の手段として、権力意志として」必要とされてきたのだという。
キリスト教に限らず、民主主義やアイドルのような現実には達成し得ない大きな理想を抱けば、かならず失望がつきまとう。その失望の境地がニヒリズムであるが、さらに裏返せば、そうした理想を求める人間性とは、より大きな権力を求める意志であると考えることができる。
「権力量は本質的には、暴力をふるい、暴力に対してわが身を防衛する一つの意志である」。人間はあらゆる場面でより大きな支配を求め、支配されそうになれば抵抗する。そのような衝突の作用が、政治をつくり、宗教をつくり、芸術をつくってきた。のみならずニーチェによれば経済も、原子の動きでさえもその原理にしたがう。権力への意志とは、世界を動かす根本的な原理なのだ。
そして理想とは、ある領域での権力(への意志)が最大化した状態を指す。究極はもちろん神である。人間は、決して実現しないにもかかわらず、理想を描かずに生きることはできない(人間保存の手段)。理想=最大の権力を手にすることはできないが、「権力への意志」だけは失うことがない。
ニーチェは、権力への意志に無自覚なまま平等や権利を主張する旧来の道徳観にNOをつきつける。とともに、権力への意志を自覚的にコントロールし、弱者たちを従える強者こそが、ニーチェが見出した新しい価値である。歴史においてはナポレオンであった。同様の強者の出現をニーチェは待ち望んでいるのだ。
*
こうしたニーチェの思想は、哲学の歴史のなかでどのような位置を占めるのか。『わかりたいあなたのための現代思想・入門』によると、20世紀の哲学者ドゥルーズは、ニーチェの哲学を「『誰が』の問い」と表現している。
「形而上学は、本質についての問いを『……とは何か』という形でたてる。しかしわれわれが本質へと導かれるのは、ただ『誰が』という問いによってだけである」。
古代ギリシャから、哲学は「愛とは何か」「正義とは何か」といった問いをめぐって展開されてきた。「……とは何か」と問い続ければ、最終的にはひとつの真なるもの(理想)を根拠にせざるを得ない。それが形而上学だ。
しかしニーチェは、そうした問いを問うているのは「誰か」=誰の「権力への意志」が働いているのか、というテーマを新たに提出したのだ。同時に、これ以上追究できない真なるものなど存在しない、と否定した。
「何か」から「誰か」を問う哲学。これがニーチェ以前の哲学者たちの前提を覆す、「反形而上学」の狼煙だった。以降の現代思想のプレイヤーたち――フッサール、ハイデガー、サルトル、レヴィ=ストロース、フーコー、バルト、デリダ、ドゥルーズといった人々は、みんなニーチェの反形而上学の精神を受け継いでいる。ニーチェは哲学の歴史における最大の曲がり角に位置するようなのだ。
*
これ以上の詳しいことはまだわからない。でも、こうしてニーチェを読むことができたのは、哲学の世界を知っていこうというタイミングにとてもマッチしていたと思う。ニーチェはかなりすごいやつだった。
次はプラトンの『国家』を読むことになった。ニーチェがぶち折ろうとしたメインストリームの親玉である。

コメント
コメントを投稿