『人新世の資本論』のこと、運動と政治について

 

読書会で斎藤幸平『人新世の資本論』を読んだ。 


タイトルの「人新世」は、「ひとしんせい」もしくは「じんしんせい」と読む。地質で区分された地球の歴史を地質年代というが、人間が地球環境に決定的な影響を与えた結果、新たな地質年代が始まっているのではないか、と提唱されたのが人新世である。定義は諸説あるようだが、本書では主に産業革命以降の急激な環境破壊が念頭に置かれている。

「資本論」は、共産主義を唱えた19世紀の思想家カール・マルクスの著作である。人新世は20世紀にはじめて使われた概念なので、資本論では論じられていない。だからこそ本書は、マルクスの著作を21世紀の観点から読み直すというコンセプトに貫かれている。

(ちなみに、人新世の諸説のひとつに、1945年アメリカで行われた世界初の核実験を始点とする説もあるようだ。共産主義の最大の実験場ソ連で起こったチェルノブイリ原発事故のことを念頭におくと、「人新世–原子力時代の資本論」として本書はまた異なる視点で読み直せるかもしれない)


マルクスを21世紀に読み直す、と書いたが、そもそもマルクスは20世紀に最も読まれ、世界中に影響を与えた思想家だった。戦後欧米や日本の若者がマルクスを読み、共産主義革命をめざして運動を起こした。しかし、それらの試みはほとんどが失敗した。共産主義を国家として実現しようとしたソ連はスターリン体制下、弾圧によって膨大な数の犠牲者を生み出してしまった。マルクスの思想は世紀の変わり目を目前に力を失った。

だから、本書が掲げる「脱成長コミュニズム」は、現在の世界をおおう資本主義に抗うのみならず、過去の共産主義との決別も標榜する。

人新世の環境破壊は、無限の利潤を追求する資本主義によって必然的にもたらされた事態である。だが、経済の生産力をひたすら向上させれば理想の社会が実現できる、という思想は、ソ連に代表される20世紀の共産主義も同じなのである。どちらも少ない資源でより多くの成果を獲得する技術を開発することによって、逆説的に資源の消費量を飛躍的に増やしてしまった。

斎藤の「脱成長コミュニズム」は、資源を平等に配分し、利用に制限をかけることで持続可能性を担保することを目指す。そこでは合理性という言葉の意味の転換が求められている。少ない資源で最大の価値を得る合理性ではない、資源そのものを持続させていくという新しい合理性である。


だいたいこういう感じの本なのだが、読書会ではいろいろな論点が出た。ここでは「運動と政治にかかる時間」について考えを整理したい。

斎藤は「脱成長コミュニズム」の鍵を、資源の「市民営化」に見出している。市民営化とは、水や土壌、インフラ、教育といった財産を、企業でも国家でもなく地域市民たちが共同で管理し、持続可能性にもとづいて使いかたを決めようというやり方だ。スペインのバルセロナではすでに不動産の市民営化がはじまっている。

気候変動対策に残された時間は少ない。斎藤は、こうした市民発の運動こそが、資本にしばられた政治にはできない、迅速で革命的な施策を可能にするという。

確かに希望を感じさせるエピソードではある。だが疑問が残る。運動は瞬発的な行動変容をうながすことはできるかもしれないが、変容そのものを持続させることはできるのか。変容を持続させるにはどうしたって政治が必要である。それは政治家やスポンサーといったエリートが必要だという意味ではない。異なる意見を集約し、ひとつの行動に導いていくのにはどうしても時間がかかる。しかし民主主義を捨てないかぎりその手続きをスキップすることはできない。相反する利害をもつ人々を納得させるには、やはり落としどころをさぐる政治の時間と場所が必要なはずだ。


『オクトーバー:物語ロシア革命』という小説を読んだ時に思ったのは、革命とは膨大な手続きを経て実現されるんだなということだった。レーニンやトロツキーは、激変する政局のなかで、議会でも党内でも数え切れないほどの多数決をとり、小説ではそのすべての賛成数と反対数と棄権数が示される。言い換えれば、どれだけ志を同じくした人々が集まってもかならず意見は衝突するし、多数決の満場一致はあり得ない。バルセロナの人々がいかに大胆な提言を行ったとしても、そうした問題に直面したはずである。

果たして、私たち市民は同じ「使用価値=新しい豊かさ」を共有することはできるのか。衝突はかならずある。同じエビデンスを前にしても、人々が同様の論理的結論に至ることがどれだけ難しいかは現在の世の中が示すとおりである。しかし、気候変動対策は待ったなしで、だから斎藤は政治でなく運動を求めている。

うまくまとめるのは難しいが、たぶん「脱成長コミュニズム」はどうにかして瞬間的な運動から持続的な政治へと脱皮しなくてはならないのだと思う。「現実的になれ」なんてつまらない結論かもしれないが、環境問題がきわめて現実的な問題であるかぎり、この問題を避けては通れない。

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