政治の大きさ(小ささ)と『プロット・アゲンスト・アメリカ』

 


 1940年の米大統領選は、民主党現職のフランクリン・デラノ・ローズヴェルトが異例の3期目当選を果たした選挙である。

前年にドイツが始めたヨーロッパの第2次世界大戦。アメリカ世論は第1次大戦の苦い記憶から不干渉に傾いていたが、ローズヴェルトはイギリスへの武器輸出を通して積極的な介入を呼びかけた。

41年の日本による真珠湾攻撃以後、アメリカは全面参戦に転じた。次々と武器を量産させて戦争を推し進めたローズヴェルトは続く1944年の選挙でも勝利。アメリカ史上唯一4期務めた大統領となったが、終戦目前の19454月に死去した。

というのが「史実」だ。ところが、米作家フィリップ・ロスの長編『プロット・アゲンスト・アメリカ』(2004年)は、時計の針を巻き戻し、1940年の大統領選挙でもしもローズヴェルトが負けていたら、という仮想の世界を描き出す。ローズヴェルトの3選を阻んだのは、飛行機による初の大西洋間単独無着陸飛行を成功させた若き飛行士、チャールズ・リンドバーグである。

リンドバーグは、第2次世界大戦への徹底的な不参加を表明して当選し、実際にヒトラーと不戦条約を取り結ぶことで公約を果たす。イギリスやソ連がドイツによる空襲にさらされ、多くのユダヤ人が強制収容所に送られる中、アメリカ人たちは大統領がもたらした平和を堪能する。しかし、主人公である7歳の少年ロスとその家族ら――アメリカ国内のユダヤ人たちは、じわじわとその居場所を無くしていく。

史実において、リンドバーグは飛行士としての英雄的な実績とともに、反ユダヤを明言してはばからない差別主義者でもあった。実際に大統領選への出馬も取りざたされたこともあったが実現せず、1940年の選挙でローズヴェルトと争った(そして大敗した)共和党候補は別の人物である。だから、この作品は史実に基づいた一種のシミュレーション小説である。

物語でリンドバーグはただ、自らの強靭な開拓者精神を象徴する飛行機で演説会場に降り立ち、シンプルなメッセージを発信する。「ユダヤ人が己の利に叶うと信じるものを護ろうとするのを咎めることはできません。しかし、私たちもまた(……)他民族のありのままの情念と偏見がわが国を破滅に導くのを許すわけには行きません」「アメリカがふたたび世界大戦に加わるのを防いで民主主義を護るためです」(これは19419月リンドバーグによる演説で実際に使用された言葉でもある)。

こうしてリンドバーグが大統領に就任すると、ユダヤ人一家を取り巻く環境は少しずつ悪化していく。観光地ではホテルの部屋が知らないうちにキャンセルされ、父は職場から望まぬ配置転換を促される。ロスの兄は田舎ケンタッキーでの「同化プログラム」に参加することで健康的な白人アメリカ人の感性、つまり「アメリカでは迫害など何も起きていない」という確信を携えて帰宅し、根っからのユダヤ人である父と衝突を繰り広げるのである。

*

ナチスドイツのように、ユダヤ人たちの生活への直接的な介入をリンドバーグはしていない。しかし、一家は政治による決定的な影響を被っていく。大きな政治と、小さな生活というきわめて非対称的な関係を、少年ロスは肌で感じる。

恐怖が、絶えまない恐怖が、ここに綴る記憶を覆っている。むろん恐れのない子供時代などありえないが、もしもリンドバーグが大統領にならなかったら、あるいは自分がユダヤ人の子孫でなかったら、私はあそこまで怯えた子供だっただろうか。

子どもから大人になることは、おおよそ「理不尽なことに耐える術を知る」ことである。それは多かれ少なかれ誰もが通る道だ。だとしても、ある政治的な動きは、ある人々の人生に決して逃れられない種類の爪痕を残してしまう。いや、ある政治的な動きではなく、政治とは例外なくそういうものかもしれない。リンドバーグという政治家の行動がロス少年の人生に与えた巨大な影響は、ありふれた一例に過ぎないのかもしれない、私たちがそうと知らないだけで。

 この小説が描いたのは、大きな政治に翻弄される小さな庶民の生活である。政治はそもそも大きく抽象的なものだ。マスコミを見てもネットを見ても、選挙のときも不祥事騒ぎのときも、政治をめぐる言説はほとんどが紋切り型を免れない。誰もが己の人生とは関係ないところで繰り広げられるショーとして政治を消費する。

 しかし、私たちは小さな政治の言葉をこそ見つけなければならない。特に、民族や性別や身体にマイノリティの自覚を持たない、私のようなマジョリティの人々たちが。「だからこれ、はい」と差し出せるような正解はないが、たぶん、マイノリティの人々と同じ言葉を語るのではなく、もちろん大きな政治に全面的に乗っかるのでもない、不安定な地点に立たなくてはいけないのだろう。少なくとも、自分はまるで7歳の少年のように、小さな政治の言葉をいまだに持っていない、という立場に。

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