強者に憧れるニーチェ

 


 長かったニーチェの『権力への意志』もいよいよ終盤に入った。

 この本は大きく4つのパートに分かれている。1では執筆当時のヨーロッパに訪れつつあったニヒリズムの流行が提起される。ニヒリズムとは、キリスト教やヨーロッパで育まれてきた伝統的な価値観への幻滅だ。ニーチェ自身もニヒリストを自称している。いわく、世界は陥るべくしてニヒリズムに陥った、というのである。

2では、具体的に宗教、道徳、哲学といったヨーロッパの価値観を批判していく。それらは人間を救い、保護しようとする。しかしニーチェは救済を嫌い、人間の弱さは権力への意志の弱さであると断じる。それでは、権力への意志とは何か。3では、権力への意志が発現する場として自然、社会、芸術を例に挙げる。自己を保存すること、他者を支配することが権力への意志であり、人間を成り立たせる原理である。

そして4では、平等を求める近代に逆らって、「強者と弱者」の序列を人間に取り戻そうと訴える。権力への意志を強く保持した人間がいて、畜群(ニーチェは弱者たちをこう呼ぶ)はその者を君主とするべく成り立つシステムの部品となるべきだという。

 

低劣な人間ども、巨大な多数者は、たんなる前奏や稽古にすぎず、それらの合奏から、全き人間が、これまで人類はどこまで前進してきたのかを示す里程標的人間が、ときどき発生するということ

 

序列を取り戻す、というにはもちろんニーチェの理想は過去にあった。今回じぶんが読んだのは4の出だしのあたりまでである。おそらく結末にかけて、ニーチェが理想とする古代の強者について語られるのだろう。

それにしてもきわどい、というか現代なら完全アウトとされる議論である。文中で何度も「強者」としてのユダヤ人を称賛しているにもかかわらず、ニーチェの妹がナチスに取り入るために兄の著作を利用したというのもうなずける。あるいは、ジョジョ第2部のラスボス・カーズは古代から蘇った究極生命体だったが、こんなイメージだったろうか。

だが、ニーチェの「強者と弱者」論が危ういのは過激だから、だけではない。弱者を批判する言葉が雄弁なのに反して、強者を語る言葉がどこか貧しいのである。たとえばニーチェは、強者の本質は決してなし遂げた実績に宿るのではないという。

 

偉人の「高級な本性」は、他と異なっていることのうちに、伝達のきかないことのうちに、位階の距離のうちにあるのであって、――なんらかの結果のうちにあるのではない、しかも、たとえ彼が驚天動地の結果をひきおこすとしても。

 

強者の本質は「他と異なっていることのうちに」宿る。これは「強者は弱者よりも強いから強者だ」と言っているようなものである。つまり、ニーチェの強者像ははっきりとした輪郭が(今のところは)示されていない。

たとえばナポレオン、あるいはチェーザレ・ボルジアといった固有名が、歴史上の強者として取りざたされてはいるが、深くは踏み込まれない。さらに、歴史上の偉人だけを理想として挙げるのは、ニーチェは直接には弱者しか知らないことの裏返しでもある。

読書会ではこれを、ニーチェが「ドイツ観念論=ロマン主義」の系譜にあることを意味するのでは、という話になった。ロマン主義とは、個人が抽象的な概念(たとえば世界)と対峙し、理想へと飛躍しようとする考え方をいう。『権力への意志』でニーチェはロマン主義芸術を批判している。にもかかわらず、ニーチェの強者志向が何よりもロマン主義の産物なのだとしたら面白い。

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