観察して、更に観察して
「日々移動する腎臓のかたちをした石」という短編小説が村上春樹の作品にある。
30歳を過ぎた男性の作家が、パーティーで女性と出会う。作家は女性から「私はどんな仕事をしているように見える?」と訊かれる。
「ヒントは?」
「ヒントはなし。むずかしいかしら? でも、観察して判断するのがあなたの仕事でしょう?」
「それは違うね。観察して、観察して、更に観察して、判断をできるだけあとまわしにするのが、正しい小説家のあり方なんだ」
印象的なセリフである。小説家は観察するが、判断しない。これは物語の設定にとどまらない、村上じしんのポリシーのようである。
エッセイ『職業としての小説家』のなかで村上は、普段から訊かれる「作家になるために必要な訓練とはどのようなものか?」という質問に答えている。第一が「良いものも悪いものもなるべくたくさんの小説にふれること」、そして第二が「まわりにいる人々や、周囲で起こるものごとを何はともあれ丁寧に、注意深く観察すること」だという。観察し、考えを巡らせる。けれど、考えを巡らせた結果、なにかの結論を早急に導き出してはいけない。判断を保留し、その出来事をひとつの事例としてそのまま記憶することが大切だ。
村上の例では「真剣に腹を立てるとなぜかくしゃみが止まらない人」である。そこから安易に判断をくだしてはいけない。判断しないというのはたぶん、「価値判断をしない」という意味だ。つまり、その人は「おかしい人だ」とか、逆に「優れているのだ」とかの評価をくださないこと。
村上は、判断を即座にくだすのがうまい人は、学者や評論家に向いているかもしれないという。たしかに、一般的に評論や批評という行いに期待されているのは、その作品が優れていて見るべき価値があるか(あるいはその逆)、を判断することである。文学と批評の境界線は、観察と評価の境界線に等しい、というのが村上の考えだ。
だが、当の批評家が「評価よりも観察だ」と考えているとしたらどうか。
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「美味しいという字は美の味と書くのだが、」というタイトルの文章が佐々木敦の評論集に収められている。佐々木はそこで、グルメを引き合いにして、じしんが考える批評観を簡潔に説明している。うんちくや星付けが重視されているグルメの世界とは異なり、批評とは「ここにこれがあるよ、と告げること」、そして「それは何をしているのか、を記すこと」だという。とくに後者について、佐々木はプログラムとエフェクトという二つの観点をもっている。
すなわち、内向きと外向き、である。それの内部では一体どのような仕組みが働いているのか、システム=プログラムの駆動ぶりを解析したい。そして、それはそれの外部に対して、いかなるエフェクトを発揮しているのか、それは外部の枠取りによって、色々なレヴェルがある。ジャンルやシーンや時代や世代や社会や世界や何やかやといった諸々の枠取りに沿って、それがしていることを言葉で示してみたい。
この記述からよくわかるように、村上の文学観と佐々木の批評観はとても近い。いずれも優劣をくだす価値判断を保留することから始まる。冒頭の小説をそのまま置き換えれば、「観察して、観察して、更に観察して、判断をできるだけあとまわしにするのが、正しい批評家のあり方なんだ」ということになる。文学と批評は、実は共に境界線のこちら側にあるのだ。
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そうだとして、文学と批評とは異なる、境界線のあちら側にあるものとは何か。
たぶん、それは二項対立を原理とした諸々の営みである。たとえば政治、あるいは経済、法律、芸能。東浩紀によれば、カール・シュミットが定義した二項対立の原理はこのように説明される。
シュミットによれば、抽象的な判断には、必ずその判断の基礎となる固有の二項対立がある。たとえば、美学的な判断は美と醜の二項対立(美しいかどうか)に、倫理的な判断は善と悪の二項対立(正しいかどうか)に、経済的な判断は益か損かの二項対立(儲かるかどうか)に支えられている。
そして政治とは友と敵の二項対立である、というのがシュミットそして東の本題なのだが、ここでは「二項対立」という原理が重要だ。二項対立を成り立たせるには判断をくださなければならない。たとえばミャンマーで軍がクーデターを起こせば、諸外国は即座にそれを非難するか黙認するかを判断する(友か敵か)。そういう大きな話でなくとも、センター試験でマスクを鼻にかけなかった受験生が失格になったときけば、Twitterで誰しもが「適切だ」「理不尽だ」と判断をくだす(善か悪か)。私たちは、ふだんから必要に応じて、あるいは必要でなくともおのずから好奇心に駆られて、大小の判断をくだしている。
即座に判断をくだすのは楽しい。もっともらしい根拠を付け加えて議論を構築するのには快感がともなう。けれど、そこで判断を思いとどまり、観察しつづけることが文学であり批評の役割だ。言葉による観察の末にメタファーにいたれば文学で、ロジックにいたれば批評となる。優れているかどうかではなく、それは何をしているのかを考える。村上と佐々木の本を読んで、そういうことを考えた。

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